いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

空港に向かおうとすると、空港行きのバス停がどうしても見つからない

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 バス停が見つからないなどということは今までなかった。

 

 正確に言えば、バス停はいくつかあるのだが、行き先を見て確かめると、どれも私が乗らならなくてはならない空港行きのバスが止まるバス停ではないのだ。

 

 大通りを挟む暗い沿道には屋台が広がり、大通りには車やバスや原付タクシー(こう言えばいいのか?)が溢れ、あっち側かなこっち側かなと行き来するのも楽ではない。40分近く聞き回っただろうか。しかし全く見つからなかった。もしかして空港行きのバスは運行を中止したとかいうこともありうる。

 

 正直タクシーだけはやめたいのだ。私は日本国内でも容易にタクシーに乗らない。いくらかかるか不明瞭だし、渋滞に巻き込まれる恐れもある。それにスマホの地図を見ることができるとは言え、どこか知らないところへ運ばれ始めたら止めることはできない。中国のタクシーは運転手を暴漢から守るために、運転席の周りに頑丈な鉄格子のようなものをはめていて、叩いてもビクともしないようなものなのだ。あと中国のタクシーはメーターがなくて、運転手の言い値である。別に中国は危険だというのではない。しかし私が思うにこの世の中では、あまりにも自分の財産や運命に無頓着な人間ははめられても当然なのだ。それらは守られてさえもいないのだから。(ちなみにここだけの話、深夜の大阪の飲屋街の方がよっぽど怖いし治安が悪そう。私は中国にいて、街中で大の大人が酔い潰れたり、やった結果本気で殴り合ったり怒鳴ったりしているところをついぞ見たことがない。大阪の梅田とかの繁華街では深夜に歩いていればそういうのを見ないことの方が珍しい。大阪ではそういう時、音もなくタクシーが背後から近づいてきて、「怖いだろう乗らないか」というようにドアをぱかっと開けてくる。絶対に乗るわけがない。なんとくだらない消費だ。酔っ払いが銃でも撃たない限り、とばっちりを喰らわないよう逃げればいいだけだ。が、しかしほんとに深夜のあの辺りはひどい。)

 

  話はずれたが、私はこれまで国内でも国外でもタクシーには極力乗らないようにしてきた。国内でも乗ったことは数回しかない。それも同伴者に言われて仕方なく乗るとかそういうやつだ。しかし今回はもはや他の手はない。しかたないのでタクシーに乗った。時間が迫っていたのだ。

 

 結果として運転手はすこぶる善良であり、とても良心的な値段で、しかも儲けが少なくなるのを厭わずに高速に乗りまくり迅速に私を飛行場に送り届けてくれた。感謝。

 

  路上で露店を広げていた人たちも、みなすごく頑張ってバス停の場所を考えてくれた。

 その時に私は気づいたのだが、露店を開いている人はプートンフアと呼ばれる標準中国語を話さない。彼らはどうやらこのあたりの地理にもあまり明るくない。どうやら外から来た人たちのようだ。そのことがわたしの焦りに拍車をかけたのだが、明らかに助けても特にならないわたしのような存在を助けようとしてくれたことに感謝しました。

 

  これは飛行機に間に合わず予約し直しで大損害だなと思っていただけに、タクシーのおかげで時間前に西安の咸阳空港に着いた時には、「この空港綺麗だなー!空港ってこんなに光ってるんだな。」とかバカみたいなことを思った。 

 

  今回の旅行ではこのほかにも、出先で偶然会った人に親切にしてもらうことが多かった。

 

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 この写真は神戸の中華街の長安門。

 

 

 

歴史を秘めた建築もスモッグの中へ

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 西安のスモッグはひどい。遠くの方に羽虫が大量発生したみたいに空が霞んでいる。遠くの方にある標識はなんと書いてあるのかわからない。しかし夜はこんな風に美しくライトアップされている。思うに、中国の人は歴史的建築物をライトアップするセンスがある。

 

 書店で中国の環境保護に関する法律の本を買った。兵馬俑を見に行ったが、日本の学生は学割にしてくれなかった。まあ外国の学生なので学割なされなくても当たり前といえば当たり前ではあるが、中国の観光地で学割にしてもらえなかったのはこれが初めてだ。海外から来たのに学割にしてくれると、うれしいなあと思う。兵馬俑の博物館は150元(2400円くらい)であり、中国人にとってかなり大きな出費である(私にとっても大きな出費)。

 

 兵馬俑の博物館の施設を見ると、施設を作るのにお金がかかっているのは良くわかるが、これに150元払うかと言われると微妙な感じ。お土産も高いし。

 

ちなみに日本の池袋にあるサンシャイン水族館はクッキーなど食べ物系のお土産が安く お得感があると思う。ただし展示ゾーンは狭いので、年間パスポートを買って度々息抜きに使うようにすると良い。

西安なんて美しい。なんて空気が汚いところなのだ

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 西安はとても美しい。しかしなんて空気の悪い街なのだろう。若い人たちがマスクをつけている姿も目立つ。

 

 昼夜間列車の中で隣になった人に印象的なことを言われた。今度機会があれば書こうと思いました。

 

 重度汚染......

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貴陽から西安に向かう約23時間かかる昼夜行列車の中でこれを書いている

 山の上にずいぶん明るい大きな塔が見える。高速道路は複雑に重なり合い、量産されたアパートの窓にはところどころ電気が灯っており、空は何かの光に照らされて、赤灰色に光っている。北京時間の夜10時半である。今は遵義のあたりを通っている。しゃれた街灯はいちいち下車して写真に撮りたいくらいだ。 

 

 何かの工場から煙が空に向けて上がっており、誰にも記録されない私の人生がこの硬い寝台にはあり、全て車窓からの景色は流れ去って行き、私はやっぱり自分の人生を無責任にも浪費しているんだろう。

 

  奄美大島で地元の小学生の作文を読む機会があった。日頃感じる苛立ちについて、自分の成長について書いた文章だったが、作文の各所に「〜〜だろうか。」という表現が多用されている。自分のことに関する文章なのに、あまりにもたくさん、「〜〜だろうか。」の表現がある。例えば、今の私が作文の作者のように語るとすればこんな風だ。

 

 私がずいぶん自分の境遇や行く末について無関心のような気分になっているのは、自分が貴陽にまで来た理由さえ、きちんと説明できないからだろうか。2時間寝たきりで、もう寝る気が起きずこれを書いているのは、あまりにも窓の外の白い光が眩しいからであろうか。もしくは今日食べ損ねた肠旺面の味が気になるように、やりそこねた数々のことに目移りしてしまうようだからであろうか。私はこれからもこんな風に、なんの理由も理解できないままで生きて行くような気もする。あそこにあるのは川だろうか。そこだけ電灯がなく、暗い溝のようだ。川を見るといつもそこに故人があるように思うのは、三途の川を渡れていない、個人の存在を想定しているからであろうか。なぜ私の向かいの席の女性はこんなにも故人の愛人に似ているのだ。髪の巻具合まで同じではないか。ただ彼女の方が足が長く、中国語をしゃべっているためにあの愛人の特徴的な語尾を聞かなくていいというだけだ。故人はまだ川から離れられないのだろうか。私は今なにを思っているのだろうか。これは苦しさというものであろうか。

 

 みたいなね。

 

 

  こうしてこんな環境の中で、自分で選択した列車に乗っていてさえ、私は何かの奴隷なのだ。もういいさと思った。

 

 

猿は、

 

 

 猿は人間に貰った小さなチョコ菓子の包装紙をギザギザのところから破って中身を丁寧に食べるくらいのことは平気で出来るということを目撃して知った。

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 バスの中で中国人が「兄弟がいるって実際いいの?どうなの?」という話題について話しているページを見つけて読んでいた。割と面白かった。

 

 やっぱり世界は普通に面白かった。私は昔から強烈な楽しさというのは感じないたちなんだろう。東京では退屈しきっていた自分の気持ちが、ゆるゆると動いている。そしてそんなに退屈してる場合じゃなかったんだと思い出した。

 

 早く自立して、自分にできるかもしれないことを精一杯やりたい。

貴陽にきたが、正直1人でぶらぶらしていてもつまらない

 新しいものはたくさんあるし、物珍しいものもある。しかしなんとなく、珍しいものを見ることにも慣れた。この現象は一体なんなのだろう。珍しいものを見ることにも慣れるなんて。これが歳をとると言うことか。

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  明日は雨らしいが、博物館とか公園とかに行こうと思う。ちなみに1人でぶらぶらしてもつまらないと書いたが、複数人でも大して面白みを感じると言うわけではない。最近は以前に尋ねた場所を再訪して、その場所の人が自分を覚えていたりいなかったりするのが面白い。そして近況報告しているうちに、今と昔の自分は何が変わり、何が変わっていないのか、自分はどんな無理をしてるのだろうとか言うことが、だんだんわかって来る。そう考えると、単に珍しいものを見て楽しく思うような時期は過ぎたのであって、これからは違う楽しみ方ができると受け止めてもいいかもしれない。しかしやはり、珍しいものを見たときに本気で観察する力を失ったのかなとも思う。そのことは悲しい。

 

 しかしよく考えてみればこの世に生まれ落ちてからまるで出来合いのような楽しみを感じていたことなどなかった気がする。わたしは自分でアルバイトとして働くことを選び、それによって稼いだ金銭を他人に渡さないことを自分で選び、自分で貴陽にくることを決定し、こうして柳を見ることをしている。それもまたこの世界に遊ばれている結果だとしても、今日1日わたしが個人として存在したことをわたしはとりあえずしばらく忘れはしないだろう。

名古屋駅

  名古屋駅に来た。ついたのが早くてまだモーニングで有名な店はやっていなかったので、モリバコーヒーという東京にもある店があったので入って見た。すると高級感あふれる店の外観とは裏腹に、カフェラテの値段はそう高くなかった。昨日節約のことを書いたばかりだが、今日は早速遠出なので少し贅沢している。ちなみにカフェラテなんかおそらく原価率にしたらかなりひどい買い物だ。

 

 しばらく本を読んだらモーニングで有名な店に行くか、それとも本屋でも漁るか。しかし、モーニングの写真を送ってくれと楽しみにしている人もいるわけだし、モーニングは食べに行くべきだろう。また本を買っても、飛行機に乗るときに重量オーバーしてしまうと面倒だ。それに日本の本を中国に渡ってから売るわけにもいかないし。

 

 名古屋駅周辺は何かとガラス張りのビル(わりと高層)が多くて、なんだろうなと思っている。なんかもうちょっと行くとこ探そう。ふとした風が寒い。

 

 追伸:このモリバコーヒー、真剣に本を読んで読書ノートを取っている市民が二、三人。朝7時半。

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生活費を減らすための心がけ

 生活費が増えると、日を追うごとにそれを減らすのは大変になってくると思う。お金に追われ、人をおとしめたり、労働に食いつぶされたりする人間にだけはなりたくない。

 

 そこで私が今月になってから生活費を最小限に抑えるために心がけていることがある。

 

 1 出来合いの食べ物を買わない

 2 朝は米をたくさん食べる(玄米の方がよい)

 3 人に金を貸さない。

 4 朝起きたら水筒にお湯を入れ、一日飲む

 5 酒を飲まない

 6 塩おにぎりを作り昼に食べる

 7 甘味を買わない

 8 ものは大事に扱う

 9 もっているものをきちんと管理する

 10 早めに出かけるようにして、体調が悪い場合以外は出来るだけ歩く

 11 よく眠る

 12 義務でないことは楽しいこと以外やらない(ただし恩師の頼みは別)

   13 買ったほうが人生がうまくいきそうな品物があっても、うまくいかないのかもしれない場合はだいたい買わない。

 

 出来合いの食べ物(特に外食)は原価率も低く、サービスにお金を払うといっても自分が行ける外食店なんて、お金を払うほど特別なサービスを提供しているわけではない。大体の場合自分で作った方が価格も安く味も自分好みである。だから私は自分で出来るだけ作ることにする。酒を飲まない、塩おにぎりを作る、甘味を買わないなども同じ。塩おにぎりはすぐ作れるのでよい。眠くても作れる。

 

 外で食べてしまう可能性を減らすために、朝はたくさん玄米を食べておなかをいっぱいにする。寒い季節は朝ご飯をたくさん食べないとつらい。朝起きたら水筒にお湯を入れる等も同じ。

 

 人に五百円とか、お金を貸さない。返してというのも面倒だし、帰ってこない場合もある。大学入学当初は同じ大学に通っているのだし、まさか返してくれないことはないだろうと甘く見て、同じ大学の学生に貸したりしていたが、実は帰ってこないこともある。こういうのは気分も悪いし、貸さないことにした。

 

 よく眠ることは判断力を保つために必要なことで、これらすべて取り決めたことをちゃんと実行するには必須の行為である。

 

 義務でないことをいろいろと抱え込むと、交通費もかかるので、楽しいこと以外はやらないことにする。交通が便利な都会に暮らしているからかも知れないが、平気で横浜の方まで呼び出されたりすることもある。

 

 こんなことをしていたらつまらない人間になってしまう、友達が居なくなってしまうとよく言われるけれど、お金がなくてもつき合ってくれる友達を見つけることはいいことだとおもう。ので、そんなに悪いことばかりでもないと思う。惨めにならない程度に色々試みようと思う。

 

 私は昔から家族から隠れたいという欲望が半端ではないので、どこかへ出掛けていきたくなる。それがかなり交通費をとるけれど、やはりそれは面白い人生経験になっているし、それだけは自分に許している。早く家を出て、自分の住処をもとう、と毎日思っている。