間に寺がある町に住んでいる
大きな道があって、
丘のところに家がある
2月に結婚をする
給料がどうでも
やっていくんだぞ
よし
寺ではみんなが寄贈した狛犬が並んで
何対もある
今読んでいる本。著者の住んでいる家の家賃が高くて女一人で三人の子供育てていてすごいと思った。
大人になっていくと同時に、どんな些細な嫌な感覚にも耐えられなくなっているように思う。子供の時はそもそもどこへ行くこともできないのでせいぜい平地にいるより高い場所に上って一人になるくらいのものだ。
大人になると自分で仕事も辞められるし、親とも離れられるし、嫌な話は聞かないでその場を離れることもできる。
こんな風でいいのかなと思う。自分は23歳くらいの時にそういう人生が始まって、大体今に至るまでまるで年を取っていくのを感じないし、そばに旦那がいる今に至っては、まるで人生が静止したように、湖面の幸せを味わっている。
このプランはだんだん危ないということがわかっていて、つまり何らかの計画を持たねばならない。常に自分は、誰かに耳元で「次はどうするのか」と聞かれている気がする。どうすればいい。このまま働いていくことは不可能。それは確かだ。
父と同じ年で死ぬことを想像してみると、自分はもう人生の半分を生きたのだ。たったあと半分で死んでいくこともあり得るし、明日死ぬこともあり得るのだ。
このことを考えるのは、もしかしたら旦那のほうが私より年上だから、ある日突然死んでしまったらどうしようといつも考えているのかもしれない。シャワーから出てきたとき、自分の足を見てげんきな脚だなあと思っている。タオルでよく拭く。自分が体の中で一番よく拭いているのは脚かもしれない。
進もう進もうと思うとき、きついと思う。
東京にいると疲れるという話をFacebookに書いたら、今度東京に行くからご飯でも食べようよ!田舎の仕事の話聞きたかったら!みたいなメッセージが来たんだが、そういうことではないと思った。もっと人間どう生きるかの問題なのだ。私と会ったことをコンテンツとして自分の人生のためにするつもりなのかなと思った。ちがう。私は、あと、「がんばれ」とかももういらない。頑張っているじゃないか人生みんな。
私はもっとみんなが自分の人生について語り漏らすことなく語ってくれることを願っている。
今日は長い記事を書こうと思う。頭の中が書かなかった間のカスみたいな散り散りな思考でいっぱいだ。ヘッドホンをつけてglenn guldのピアノを聞く。この曲は子供の時おかしいくらい繰り返し聞いた。
子供の時は1時間以上あると思っていたのに、今はたった50分程度しかないのかと思ったらなんか違う曲のように聞こえる。クラシックに詳しかったというのではなくて、この曲だけ繰り返し聞いていたように思う。
クラシックでもほかの曲は変に情緒的でイライラしてしまったりして最後まで聞けない。これはちょうどいい。
最近座り仕事が多くてちょっと鬱々としてしまっている。これからずっと座りっぱなしで仕事するのかと思うと、ちょっと無理だなとすぐにこたえたい。自分の場合はよくわからなくて、ちょっと無理だなと思っても何とか続く場合もあるし、本当に無理な場合もある。何とかなる場合でも、ほとぼりが冷めたころに変な使命感に駆られて逃げてしまう。逃げるか進むかというようなのもあいまいな話で、大人にもなるとどっちが逃げでどっちが進みなのか、そんなことも脳内でちゃんと考えて、都合の良いほうに寄せることができる。だから自分がいいことをしているのか悪いことをしているのかもよくわからない。
聖書に書いていることの通りに生きるとか、家の人に認められるように生きるとかの方針を持っている人もいるのだろうが、それにしても聖書の言葉だって言葉であるからにはいかようにも解釈できる。家族も人間だからそもそも気分によって自分の行動を解釈する基準も変わるだろうし。私なんかは聖書や家族に認められることなんてないということまで思ってしまう。
こういう人間は東京では上層から追いやられていくようにできている。会社のためにはたらき、その評価を自分の給料に反映してもらっていると思い、うれしがるような人間が好まれる。私といえば、子供のころ上からの評価を追いかけていたせいで殺伐とした時代を送ったことにより、トラウマ化していて、できるだけ評価されても「そんなことはどうでもいい」と考えるようになっている。評価されることがそもそも煩わしいし、評価の対象とならないように逃げまわってしまう。毎日通うことも苦手で資格予備校に高いお金を払ったのに行かなくなってしまった。これは一つの学びで、自分の力で学べることは学べばいいし、通いの学習に頼らなければいけないようなモチベーションならそもそもやらないほうがましでほかのことをやるべきだということが分かった。
そして通いでできないことも自分一人ならできる場合もある。過敏症だから、そもそも家の外にあまり出るべきではない。東京に来ると環境が過酷だから、よく自分の性質が分かる。
私はやりたいことが多いのだが、それは誰かに評価されたいとかそういう考えとは無縁で痛い代わりに、自分が何をしたいかということを常に考えているからだと思う。そして経験は思考を生むから、いろんなことを経験することが大切だと思っている。ただしすこぶる気まぐれだから人を巻き込んで経験することはあまりよくない。
他人と付き合っていると、他人の灰汁のようなものに触れてしまって、灰汁がつよいなと思って、そんなにいつも話したり会いたくはないと思ってしまう。私は景色を眺めていたいな。移動をいつも繰り返していたい。定住はできないなと思う。それならばそれなりの手に職というやつをつけなくてはと思っている。なんとかしたい。自転車を買いたいと思っているけど、いいやつを手に入れたら会社なんか行かなくなってしまう。まったく会社の人と価値観が違うし、灰汁の強い人ばかりだから会いたくはない。何も言わずに生きていればいいのに。自分の人生の正しさを人にぶつけて、感触が悪いと人を嫌いになったりするマネはやめてほしい。私は旦那以外の人間なら最初から嫌いだから、別にその人が何と思っていようが関係ない。自分の人生についても話さないし。
なんでも考えていることはブログで書いているからいい。
私の人生は失敗のようなところが多くて、それは一つのところに長くいられないということに根差している気がするのだが、でも人が嫌いなのだから仕方ない。それならば人と会わないでうまく生きていく方法を考えなければいけないと思う。
自分の仕事自体、働けば働くほど無駄を生み出している気がしていやだ。人の一人一人は嫌いだが、人のためになる仕事でないと、人里で働く意味はないと思っている。人全体の幸せは願っている。人が幸せになれば灰汁が減るから、私も生きやすい。
今の仕事は、人が求めていることを知っているのに、そのちょっと横の違うものを与えて、人の心に「追いつけない」「手に入らない」という気持ちを毎日毎日植え付けるような仕事だ。それをやっている仕事人たちも、焦燥感に駆られているに決まっていて、わたしは毎日嫌な感じになっている。
まだ入社したばかりだから仕事はできないけど、仕事ができても結局そういう商売だから、なにをやったらいいのかわからない。
たぶん自分は本当は、認められたいし、褒められたいし、感謝されたい。けど誰も求めていないものを社会に生み出し続けているから嫌になってしまう。もっと需要に対してすぐに商品を差し出すような営業とかの仕事のほうが向いているのかもしれない。
例えば不動産賃貸営業とか。部屋についてよく知っておけば、求めているそのものの家を提案できるかもしれない。方向音痴だからちょっとよくない。
とにかく、変な褒められ方をするのも嫌だ。
うれしいとも苦しいとも思わないで、大切なものを大切だと思って、守り抜きながら、強くなりながら生きたい。
私は本当にやるべき仕事をやらないことで、人の命を遠回しにもてあそんでいるのではないか。金なんかもうかってもつまらない。でもご飯はおいしい。世の中の抜け出せない穴で、でも普通にあるとき気が向けば、道を変えられる。その先には山があり、貧しさがある。下のブログ、読んでいて気持ちが落ち着いた。
前職に引き続き、これも手作業なのかと思うことが多い。私は悟ってきたのだがこの世の中の大抵の機能は手作業で成り立っててそれを受け入れて作業するのが仕事みたい。
Hinketsudakaranegative
tokyo taihenda
昨日めちゃくちゃ意識低い人に出会って、さすがに私はこれとは違う種族だと思った。あんまり意味がないから帰りたいとかは思うけど、あんな引きずり込まれるような意識の低さには初めて出会った。
都会にはいろんなのがいる。そして気分がちょっと悪かった。
私はやっていかなければと思った。でも会社が私のおかげで稼ごうが、私に関係はないし、私に関係があるのはサービスを受ける人や働く人が幸せになるのか否かというほうなんだよといつも思っている。
だけど私には人の幸せというものがよくわからない。
だからといって、働きたくないという結論に達するのはちょっと長生きできない。働かなくて良いご身分になれば色々考えることもあるのかなあ。
かんたんEXCELとか言う本を読みながらEXCEL練習していて、EXCELの練習は何しろ眠くてもできるのが良い。今日EXCELのテーブルは便利で並べ替えとか自由にできるという話を読んだ。これ結構いいのではないか。EXCELとかふーんという感じだけど、テーブルまで行くと割と使いやすい壊れにくいツールという感じがする。フラッシュフィルとかもとてもいいと思った。
テーブル使えればそれなりに楽しめる気がする。前いた会社に行って営業さんのパソコンの中に見積もり作るEXCEL作って入れてあげたい。
EXCELは無駄にデザイン変える機能とかついてて、そういう無駄な機能が帰って忖度を呼び、デザインがうまいとか下手とかどうでもいいところに目が言ってしまい、褒める人も中身とか見ないでそれを褒めるから苦手意識のある人がいると思う。
EXCELのテーブルの重複データ削除できるよって言ってるページがあって、言うとおりにやってるのに削除されないのでイライラした。
こういう本の何が大切だろうかと考えると、繰り返し3回くらい飽きずに取り組めることで、取り組めればもう自分で使いこなせると思う。この本は中に全部の画面がちゃんとスクリーンショットのように載っている。そこがよくて、なんとなくスクリーンショットだけみて進んだ後、説明も読むかとか思いながらもう一回取り組むけど結局スクリーンショットしか見ないで二度目もやるというよくわからない本。やっているときいつも眠いからという説もある。
こないだの読み上げボタンを追加する記事に、どうやってボタンを追加するの改善にはわからなかったという話を書いたのだが、下記リンク先を拝見したら、ちゃんとどこに張り付けるのか書いてあったのに私が無視して、というかGitHubに書いているものは全部コードだからわからないから読み飛ばすという前提に立って盲目に見ていて、見つけていなかったから間違ったところに張ってしまったのであった。読めばわかるというものだった。ただ読み上げるボタンを追加できてうれしいという気持ちになった。
Excel便利だけど、正直まだ人間が手で数字を表に打ち込んでうんたらやらなければならないのか?と感じることが多くて、だるい。この現代においてまだこんな職人芸がと思うことも多く、今の仕事には割とうんざりしているが、私は現代に期待しすぎなところがあるので、地道に昭和の産物に学ぶとするか。と思ったけどExcelって平成の産物じゃないかたぶん。
Excelとかパワポとかペイントとかワードとか分かれているのがそもそもダサくて、私のエクセルとかあなたのエクセルとか分かれているのもそもそもダサくて、みんなで一緒に見るものなのにつながってない上に壊れやすくて、ワンドライブは挙動がおかしいし、エクセルそもそも、関数が最初からなかったとか、だれが壊したとか、話をするのがだるいし、ガチで私は壊してないとか言い張れる人はどこにいるのとか思いますし、前に壊した人がまた壊したんだろうとか、職場でそんな戦場みたいな会話をしなければならない状態を生み出しているくそみたいなものだと思う。便利だからソフト使ってるのに、結局人を責めてしまい、根性論に帰結するという意味のない問題で、私はとても疲れる。だから私が立ち止まるべきはエクセルではなくて、もっと先に進みたい。
そして一日パソコン作業して家でもパソコン開くのかなり心理的抵抗がある。そして目が疲れる。
寝た
下記の記事を参考にさせていただき、音読ボタンを追加した。昨日の記事から、音読ボタンを使用して読み上げることができる。読み方とかおかしい部分もあるが、自分の書いたことを読み上げられると笑ってしまう。また自分が書いている絶望的な事態が、本当に絶望的な事態に思えてきて、何とかするべきだろう
と真面目に思えてきた。自分の言葉の使い方の癖もよくわかって、何をうだつの上がらないことを繰り返し書いているんだろうとかも思う。
なぜか音読ボタンが二つ表示されてしまう。
上記の記事はどうやって使うのかわからなくて、最初に見た数か月前には自分のブログに取り入れるのを断念したのだが、今やってみたら簡単に取り入れることができた。
ただ読み上げボタンを押したものの途中で読み上げをやめたいと思うことがあり、一時停止ボタンなど実装できないだろうかと思った。
大人になるのはどんな時というのは決まっていなくて、というか大人ってなんだよというのが、生涯学習世代にとっては分かりにくくなっている気がして、こんなふうに、前は断念したことができたとか、そういう風な感じで少しずつ前と変わっているという感じだけが続いている。
今週のお題「二十歳」
大きなモニターで日記を書くこともできるように家の装備が、縁によってととのったので、それによって気力がわいて読み上げボタンにチャレンジできたのかもしれない。大きなモニターは無限の力を与える可能性があるので、次にモニターを買い替えるときには出資すること。
基本的に、おかれた環境が嫌とか、隣にいる人が嫌というより、隣にいる人がそんな人になってしまうような同じ環境に自分が置かれているということが怖い。自分が金魚だったら、同じ水槽に病気の金魚がいるみたいな感じ。
駅前の古本屋を金曜日に見ていたら、千夜一夜物語全巻が、たったの900円ばかりだ。店主が出てきたので、安すぎやしないかなと言った。富士日記の三巻セットおいているかと聞いたら、置いているよと言ったので、いくらかと聞くと1000円。買ってしまう。
この本がとても好きで、そのとき上巻しか読んでいないけど、買ったら、なんかこの本のきもちが自分にもしみついてしまいそうで、所持するべきではなくて、図書館で何度でも借りればいいと思っていた。
相変わらず、心に決めたことと反対のことを口では言ってしまったり、お金を払ってしまったりする。いったいどういうことだろう。多分心の深い部分で納得できていないのだろう。ほしいと思ったらほしいし、食べたいと思ったらやはり食べたいし、大体の場合我慢できるのだが、置かれた状況が不快すぎてしかもそのものを手にした時の気持ちが快感すぎたりたり、欲しいものが欲しすぎるという思いが何度も繰り返されて自分に刻み付けられてしまったりすると、ふとしたときに突破のために自分に禁じたことをしてしまう。
私は知り合いの会社で働かないかと誘われているのだが、今の会社でもう少し頑張るべきかなと思っている。先輩にいじめられているので、今の会社ではそろそろ部署移動になりそうだ。部署移動になれば、まず自分の経歴ではふつう組み込まれないであろう部署で働くことになる。単純に面白みがあると思っている自分がいる。私は何でもスペシャリストというより、広く浅くかじって、結果として自分の世界観を充実させていきたいと考えるほうだ。
ただ今の会社は良くも悪くも人間がおかしい。
人格がひん曲がって視野狭窄に陥っている人ばかりだ。怖いと思う。
私は周りの人の思考から影響を受けてしまうほうなので、とても怖くなっている。すでにいろんな部分がおかしくなってきている気がする。給料をもらっても、思考は一生もの。ここで壊されてはたまらないと思う。
だけど現実には、ちゃんと仕事以外の本を読む時間もなく、ひどい人間と触れ合っておかしくなってきている。そもそもみんなここで認められたいという気持ちが強すぎて怖い。上司に認められるためになら人も陥れる。なのに認められたいと思っているその上司は、ロレックスして自分のことしか考えていないとはた目からもわかる貴族だ。同じデスクの先輩同士が大声でけんかしている。どうかしてるな。その横で新卒の女性はあきれ果てている。あなたたちが新卒の時に、あなたたちの先輩はそんな風にくだらないことで大声で喧嘩していたんですか、恥ずかしくないんですか?と言いたくなる。本当に恥ずかしいしお山の猿以下。
特にやりがいもないので、ただ「間違えないで仕事をする」人が評価を落とされないというだけの状態。私とは相性が悪い。
それを思うと転職したほうがいいのかなとも思う。新しい職種を経験したところで、3年間この会社で働くのは無理だ。東京に来る必要があったので転職しましたが、同じ部署の先輩が大声で罵り合っていて、また同僚も悪口ばかりだったので、私は嫌になりました。もともと人の罵り合うのが嫌いで、毎日のことに耐えられませんでした。さらにはサービス業ではなく、手に取れる製品を作る会社でやはり働きたいと思った。というような転職の理由は、ありうる気がする。この東京で必死で耐え抜いて年収1000万円を目指すような人には許されない転職理由だが、私はそんな人間じゃない。正直そんなこと大事じゃないと最近ほとほとわかった。
駅前の古本屋のような店を私も持つことができたなら、そんなに素晴らしいこともないのにな。
暇があると疲れて気力がないので空き家バンクとかUIターン転職とかの求人見てたりする。が、問題はそれでは何も解決しないので、もっとちゃんと考えなくてはいけないのだが、職場での労働時間が長く、刺激も強すぎるので、もっと家の中で過ごせるようにしたい。何をしたらずっと家の中で過ごせるのだろうか。
私は自分の名前が大好きで、それは全然他人の存在を感じさせない、素朴な名前だからだ。なんといっても万葉集からとった雅な名前だ。
のし梅食べたい。
前の職場で大根の抜き方を教わった時のことを思い出した。
あんな風に人と会話することも都会の職場では難しい。手に大根を握って上下に動かすときの気持ちおもいだした。あの時はこんなことしている場合じゃないという思いがいつもあって、気がせいていた。
前の職場は人命を軽んじていたのであれはあれで本当に悪い場所だった。