いのちばっかりさ

生きている記録。体を鍛えて学び働きたい。

河上肇の思い出

河上肇のことをよく読んだのは、確か教員免許を取ろうと思って、大学で頑張って歴史の模擬講義の資料を作っていた時だと思う。確か獄中日記をプリントに引用して配布していたように思う。河上肇は獄中で転向するのだが、そのことについて話をした時、横から、指導教官に「えっ、河上肇は転向したんだっけ」と言われて、散々予習したにも関わらず、「え、どうだっけ」と思って、やっとの思いで「はいそうです」と答えたのを思い出した。私はいつでもそうなのだった。自分で散々予習したことが、どれも嘘だったのではないかと疑わしいのだった。急に全て疑わしいのだった。散々予習した過去の日々とは別に、いきなり今日という日が、ああこれだけが真実デスみたいな顔で、いきなりペタッと貼り付けられているようなのだ。

結局アルバイトで衰弱してしまう講義に通うのがやっとになって、教員免許を取得しなかったが、もしできるならそのうちにまた取り組みたい。早期退職をして、余生を使って取り組むのも良い。授業のために準備をして毎回作品のように大切に素材を繋ぎ合わせ、人に聞いてもらい役立ててもらうようなことが好きだと気づけた経験だった。何を拾い上げるかによって、その話の印象は変わる。素材を選ぶことにも責任が伴うと思った。

これは普通の業務も同じで、極端な部分を切り取ればよくない結果になる。大したこともないのに騒いだりとかすると疲れるし、話が進まなくなる。全体として、結局何がしたいのかが重要かなと思う。そして静かにそれに反するものに対しては情報を集めて殺していくようにしていきたい。

話外れたが、河上肇自叙伝を読んでいて、なんと文庫本5冊もある。全然読み終わらない。こんなに自叙伝を書けるなんてすごい。私は最近全集を読むことにハマっていて、それはまるでその人一人が出来上がっておわるまでを全部を見ることができるような錯覚を抱くからです。そしてなぜ全集かといえば、こんなにちゃんと長い自叙伝を自分で書ける人なんてそんなにいないと思っているから。私なら書いても書きながらどんどん疑わしくなってまとめることなんかできないように思う。それだけ多くの文章をその都度発表し、自分の考えを記録し、また他人も自分の考えを批判してくれていた人だから、こういうものが書けるように思う。

自叙伝の中で河上肇がかなり昔に寄せられた批判について丁寧に反論したり説明したりしているのが面白い。よくこんなに細かに昔のことを覚えているなと思った。

 

 

果たして自分は大学時代頑張っていたのかなあとそれさえ最近怪しい。もっとちゃんとできたのではないか、大学に入る前にもっと体を鍛えておいたらよかったなあと思う。いつも食べ物が十分になかったが、何をしたらいいか考えもせず、もっと肉食いてえななどと思ったまま植物のように上を向いていたようにも思える。一体あれは何の愚かな生活なのだろうか。