いのちばっかりさ

生きている記録。生業。通信制大学。天平の甍、生の短さについて、狼煙

盆地すき

盆地で住み働きたい

 

旦那と色々話していろいろ揉めたけど、こういうことちゃんと最後まで話せたのはなんか初めての感ある。なんかすまない点多々ある。けど自分に賭けさせなくなったら不満恐怖で鬱になるしかない。リッチになってやる。どうせうまくいかない可能性が大きいのかもしれないけど、自分はどちらかといえばうまく行くかもしれないからやる、って思う。ただ自分の心が伴っていないと無理。自分の心がどこにあるのかわからなくなったり日常に埋没している時が一番嫌。そういうときには自分だけを残してまたじっくり見たいと思うのでものを捨てまくったりする。

 

旦那すき。

 

写真集を出版したい感ある。一時期このブログは写真を貼らないようにしたのだけど、やはり伝えたいことは写真でも伝えたい。

 

エアコンをつけて本を読むと、他のこと全てに優先して金もかけても本を読む環境を整えているというわけで、やはり具合良く本がスイスイ読める。

 

大学受験の時とかも寒いところで勉強して模試などで暖房あるところで問題を解くとスイスイ解けたものだ。そのためやはり苦痛を感じながら下積み的なことするのも大事だった。

 

ここまで書いて思ったことがある。

自分が今お金がなくなるのが怖いとかやたらに話しているのは、お金がなくなる選択肢を選んで自分が何を目指すかわかっていないからだ。つまり何を作るのかということ。自分を見失っている状況だ。日常にとりあえず合わせている状況。もっとブログを書いて考えたい。

 

転職活動を微妙に熱心にできないのも自分を見失っているからだ。

 

 

よく転職活動で、「食品に携わりたい、食品の原料の産地を自分で見たい、食の安全から人の生活に力を増しましにしたい」というあなたの気持ちは今の仕事で満たすことができるじゃないですか、その夢は今の仕事で追えるではないですか、と言われた。確かにそうだが、その夢を見ていたのは学生時代の自分で、今の自分はもっといろんなことを見たし聞いたし、もっと社会じゃなくて自分自身のことを夢見ている。でも夢見てるって何を?自分として何を夢見ているのだ。社会としてじゃなく。これをはっきりさせないと社会のために消耗されるだけか。