いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

計画

私は現在転職を希望している。理由は以下である。私は高尾に住みたい。それから旦那と暮らしていくだけの給料が欲しい。自分に裁量のある仕事がしたい。しかし今の仕事をしていては高尾に住めない。旦那と暮らしていくだけの収入が持てない。会社の就業規則をつぶさに観察すると、私の任地は今田舎町になっているので、ここから東京に転勤した場合は、主管外手当がついて、さらに住宅手当てがつくので、割と暮らしていける給料になる。しかしこのような給与支給するのであれば、会社は当然その給料に見合う成績を求めるのであって、やたらめったら人引っ越しさせるわけにはいかないのだから、最初からそのような結果を残せる経験を積んでいる人を転勤させる。私はそういう人ではない。またそういう人になることを待てない。中の人は若くして転職する人間を早まりすぎだと言うかもしれないが、いや言う傾向にあるが、若い人間にはそれなりに人生をこのようにしていきたいと言うような希望がある。希望がある人間にとってそれをすぐに実現できない環境に甘んじている事は、やはり自分自身で自分の夢をつぶしているとしか感じられない。そういう理屈に合わないことを許せないと言う人だっている。いく転職する人間をまだとか早まりすぎだと言うかもしれないが、いや言う傾向にあるが、若い人間にはそれなりに人生をこのようにしていきたいと言うような希望がある。希望がある人間にとってそれをすぐに実現できない環境に甘んじている事は、やはり自分自身で自分の夢をつぶしているとしか感じられない。そういう理屈に合わないことを許せないと言う人だっている。いくつに合わないけどもとりあえず続けていくと言う人には、最初から理屈は必要なかったのである。理屈が必要のない人にとっては現状維持するのが1番楽なのであるから、そのように過ごしていけばいいのである。そうしているうちに夢見たかのような人生では無いにしろ、実は自分の立場にいいところがあったとか実は叶わなかったからよかったのだとか、そういう感じもしてくるかもしれない。それはそれでいいのだ。しかし私は自分の行動制御ができない人間である。自分の行動が制御できないと言う気持ちを長年にわたって味わってきた私と言う人間は、より一層理屈っぽく生きていきたいと思う。理屈っぽく生きられないからこそ理屈っぽくいきたいと思う。自分の人生を自分の考えで制御したい。だから今理屈に合わないことを知っているのであれば、いち早くそこから脱却し、それが社会からどのような評価を受けようとも、自分自身を制御し続けるために理屈に戻さなければ。

 

今の仕事には裁量がない。自分の裁量が与えられたところで何ができるのかはわからない。そもそも自分がAであると言われたらAであるとしか受け取れないような停止した人間なのかもしれない。変なところで解決策思いま変なところで解決策を思いつくくせ、調子に面と向かって聞かれたときには何も思い付かない。そもそも仕事では発想が膨らまない人間なのかもしれない。そのことは誰にもわからない。最近私は管理されるとやる気がなくなると結果を評価されないとそれもまたやる気がなくなるということがわかった。ゆうかそんな気がする。

 

最近出窓に座っているのだが日光が窓からいきなり入ってくる背中が熱くなる。これには困っている。しかもちょうどいい部屋にクーラーがない。なぜ家と言うのはこうもあべこべなのであろうか。正直あべこべでない家を作るだけでみんな楽になると思う。

 

それに動線を確保すると言う事。それから窓は必要なだけつけると言うこと。1番使う部屋に1番良いエアコンをつけると言うこと。部屋大杉くんならないようそれから窓が必要なだけつけると言うこと。1番使う部屋に1番良いエアコンをつけると言うこと。部屋は多すぎないこと。それくらいで充分だ。