いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

机の上にある絵

 私は机の上に、いつでも「メメントモリ(死を忘れるな)」を意識に貼り付ける小さな絵を置いている。それは上に生きた魚、下に骨になった魚が書かれている簡単なものだが、気に入っている(いや気に入っていないどころか苛立ってることもあるのかもしれないが、とにかくそこにある)。

 

 でも最近、「メメントモリ」は「メメントモリ」だが、「メメントモリ」だからって、一体何なのか、と思ってしまう。確かに死は必ず誰にでもある。でも俺は疲れた。放って置いてくれないか、と。しかし自分を放っておかないのは自分の意識自体なので、如何ともしがたい。とりあえず旦那に迷惑かけすぎなので、平穏に過ごしている人間のごとく平穏に過ごしたい。

 

 忘れてしまいたいからといって、予定を詰め込むな。

 会社の技能実習生が鎌倉で着物をレンタルしたいと言ってるのだが、五千円くらいかかるとわかってやめてしまった。もう少し仕送りをするために頑張って働いている実習生がたまの休みに楽しめそうなサービスを提供してほしい。

 

土日で合格る日商原価計算初級

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 上司が言ったのだが、娘が最近一緒に酒飲んでくれないんだと。そうなのかと思った。私の父はもう死んだんであんまり酒を飲んだりはしないです、とかよくわからないことを説明しなければいけないシチュエーションがあり、そういうことを話した。しかし私はこのことをなぜか話したくなかったようだ。話した後、大切なものを失ったような気持ちになってしまった。何で自分の父は死に、この人は生きているのか。自分の父はこの人よりもずっと多くの、自分を滅ぼしかねない危険を知っていたと思う。自分が何に弱いのかも、どうやって貧困に陥らずに生きていけるかも、恐怖心を持っていつも考えていたと思う。それは父が、何も持たずに東京にいたからだ。自分の所有である家も、コネも、 心許せる友達も、何も持たずに東京で生きていた。けどこの人は何でも持っている。いくら危険について知っていたとはいえ、結局はその数ある危険の中の1つに食われてしまう自分を止められはしなかったのだ。何かを手に入れんとして、手に入れた時の自分さえうまく想像できなかったんじゃないか。でも自分は必ず手に入れたい。自分が何を手に入れたいのか、わからないし、手に入れた時の自分を想像できない。けど自分がどんなものを嬉しく思うか、どんなもので喜ぶか、わかっている部分はあると思う。だからそれを選んでいく。

 

 自分はある程度の水準だ、と思うことができない。何かがある程度の水準であれば、違う何かはある程度の水準に達しなくなっている。こっちを引っ張ればあっちは落ちる的な感じだ。足が痛くて今すごい嫌だ。