いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

ポッドキャスト ウェブフォント

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

ポッドキャストを聞いていると、人間がどんどん声のイメージになっていって、その人の顔を見たことがあると、顔も見たことがあるぞというきもちになってくる。でもなんとなく、声や話し方を工夫して、みんな自分をウェブフォントのように操っている感じもする。

 

Youtubeは動画そのものも面白いけどコメントも面白い。

 

今はインターネットに載せて自分を残すことができるけど、自分の親世代とかはそういうこともあまりなくて、自分が生きて流れていくだけでどこにもそれを残せないという感じをずっと味わっていたんじゃないかと思った。だから一生懸命に仕事をできたのかもしれないとかは思うし、だから生殖して私たちを残したのかなとも思う。

 

たぶん私が生まれてから一般の人にもインターネットというものが使われ始めたけど、自分の父親は死ぬまでそれをあまり使いこなせていなかったし、Excelさえ結構危うかったのではないかというスピードでタイピングしていた記憶がある。母はSNSを最近使っているけど、全然使いこなしている感じはない。インターネットが普及してからもしばらくはそれと隔絶して生活していた人たちだなと思っている。そう考えると、たぶんブログとかは書いていなかったのだろうと思うし、人生が流されていくように感じはしなかっただろうか。本を作っても捨てられてしまうかもしれないし、愛を伝えても別れてしまうかもしれないという状態で、自分の愛をどこにも残せない状態だったにもかかわらず、夫婦が分かれてしまったということがいまだにちょっとすごいことのように思える。また父に至っては親族と縁を切る程度に隔絶していたし、流されていく人生の記録を一体どんな気持ちで受け入れていただろうか。そして父が死んだとき語られなかった情景や記憶はすべて一緒に葬られた。もしインターネット上のどこかに父のそれらが残されているなら、私にとってどれだけ貴重なことであろう。誇張され虚偽が記されていたとしても、残っている。

 

私はもう最近、この日々は二度とこの世界に発生しないと感じていて、動画も残したいし、ブログも残したいし、ポッドキャストを残したいと思っている。その時々の現在の自分だけではなく、過去の自分も残すことで、将来どこかの誰かと、今現在だけではない自分が交わればいいと思っている。私たちはコミュニティを失ったので、過去の自分を覚えてくれる人はいない。インターネットがそれを覚えている。こういう発信のためだけではなく、記録のためでありながら発信のためであるような公開をなんというのだろうか。広角発信とでもいおうか。

 

最近祖父の家の遺品を整理していて、その中には曾祖母の遺品も含まれていた。その中には曽祖父が出征するときに用いた日の丸の旗が含まれていた。流されていく人生のことを思い、これを残した曾祖母はどのような人物だったのか。流されていく人生の中で、私はその旗を骨とう品やに売る母の話を聞いた。コレクター向けに意外と高く売れるから買い取って行かれたそうだ。母は祖父のアパートの一室を相続したのだが、きっと都内に家を持つ最後の世代となるだろう。世代を重ねるにつれ、どんどん物を失って土に返っていくしかない私たちであるよ。その代わりインターネットの中で私は保存される。インターネットの中に人生を残す。そのことが私の人格を形成する。

 

遺品の整理をしていたとか言ったけれども、遺品の整理は4回程度であっさり終わった。引っ越し業者のトラックに載せて、それらは処分場へ運ばれた。母は家賃を払って生きていくことにつかれたと話していたが、私も一緒につかれていたのだとはお話しできないし、これからも私は疲れていくんだ。東京を離れる日まで。もしも私にもインターネット以外に自分の気持ちを生活を置くことのできる場所が手に入れば、それがどんなに適切なことか、到底お話しすることもできない。どうせ死ぬけど。そうどうせ死ぬから、ほしいなら家を買えばいいのだ。でもそんな気持ちにもならない。定住している自分が想像できないため。小説を書きたい。短いものでもいい。死ぬとき消えたくないし、この日々を残したい。でももし死後の世界があるなら、残すものだけではなく、持っていくものとして、私は旦那と二人で何をもって違う世界へ行けるだろう。