いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

報われることなど必要ない

今週のお題「お父さん」

 

努力が報われること、献身が報われること、積み重ねが報われること、苦労が報われること、目指されているのはそういうことだ。

 

私は26年間生きて思ったことは、報われることは一切必要ないということだ。報われようが報われまいが、それは問題ではない。

報われたとして報われたことが人生にとって良いことかは最後にもわからないことだ。

私は父から報われることがどんなに大切か、報われたことの上に立っている自分の人生がいかに大切かを教えられたように思う。報われるとそこでストーリーは終わった。

 

報われることが大切ではない。報われることは顕彰のようなもので、バッヂに過ぎないと思う。

不遇な目にあい、報われず、草木に交わり、悲しむ人生でも全然いいではないか。小さく生き小さく死んでもいいと思ってしまう。何をしても小さい。人間一人などはいて殺せる命。虫と何ら変わらないで、無言で人権を奪われ、草木に沈められて朽ちる。

 

報われることを意識するばかりに、自分を押しつぶそうとしてくる手に対してあらがって逃げて荒々しく生きる気力がなくなっているのではだめだと思った。

 

報われるなんて言葉、結局受け身でしかないのだ。受け身の気持ちが生き方にまで浸透しているのだ。

 

今自分がやっていることを大したことだと思ったらそれで終わりだと思う。今自分がやっていることが生きるための行為で、それだけが決して大仰なことではない。もっといいことがあれば放り出してそっちへ生きるようにしたいと思っているほうがいい。

 

呼吸をするようにその作業に帰り、報われることなど考えないほうがいい。生きていることが過去に対して報いているということなのかもしれない。

 

東京都の皆さんは報われなくてもいいから、歩くべき道として都知事選に行こう。自分は今のところ宇都宮健児さんを推していますね。