がんばる!
これでもし落ちたらこれが原因と思うものがあるので、いくつか箇条書きにしておく。
- 過去問をやっていない
- 過去問が重すぎるので、持ち歩けない
- 問題集の問題数が多すぎるのに自由時間が足りなすぎて何度も解きたいのに、次同じ問題を解くのが1ヶ月後くらいになる。もっと少ないやつのほうが良い?
- 朝起きれない
- 夜寝れない(帰るのが遅い)。仕事は仕事でもやること諦めることを決めて良さそう。
がんばる!
これでもし落ちたらこれが原因と思うものがあるので、いくつか箇条書きにしておく。
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私のやる気の入っていないショップもセールしている。
夢の話
父の母(祖母)に会う。
その人は若い頃父が出ていったきり帰ってこないという話をする。私達はいま海などある街にいる。父はニューヨークで働くと言って出ていったと言う話。
街を歩いていると「若山県の枇杷の苗」と書いてある軽バン(白)が通り過ぎる。私はなぜかその軽バンに父が乗っているのがわかる。走って追いかけるが追いつけず、一人で街を歩くと東中野駅は隣接する駅で、東中野駅につく。見たことのない高架があったりと、実際の東中野駅とはちがう。
生活用品店か百均みたいな店の前で、中国人の女性のおばちゃん店員が「チングー!チングー!」と声を出している。私はその店が「チングー」という店であるということを知っている。
駅の作りは一部赤レンガでできている。その横を通り過ぎながら、私は、「私も腐った家族との関係を断ち切り、早く海に出なければ」と強く思う。
この街は前に建築学校へ行く夢を見たとき、下宿先として住む寮のような場所が存在する東中野駅と同じだった。
私は昼前に起きて、その夢の内容を旦那に語り、父は死んだのだから、変な夢を見たものだと話した。夜にこの日記を書いているが、この夢を思い出すために旦那にまた事夢のことを話したら、旦那はそのことを口にしていないのに、「チングー」という店の名前を鮮明に思い出した。
自分もニューヨークに一度でなければみたいなことを夢で思っていたのだが起きたら全く興味がなく、面白い。
二人でずーっと引きこもって暮らしたいねーという願いに近い生活ができる。仕事がない日は。
親戚の一人が仕事を解雇されることになった。雇用保険に入っているのか確認しようとするも給与明細が電子化されてから見たことないからわかんないとのこと。こんなふうに会社を信じ社会を信じて生きてる人っているんだなあ。私の世代にはもうありえない考え方な気がする。自分の会社にも多くのこういう人たちが働いていて、そんな人たちがいるからまわっている。
私の世代といま60代とか70代とかの世代を見比べると、精神的なトレンドで行っても全く違う潮流だなと思う。
解雇されるに際して仕送りをする必要があるかと思い見直したところ、私達の収入は二人で暮らすには不足しなくても、他人のためにお金を送るとなると甚だ不安定なギリギリものだということに気づいた。もっと質素倹約をし、目の前のことに集中せねば。
下の本を買い直した。前に買ったけどなくしたのだ。
コロナでこれから荒波を乗り越えていこうと言うときに上司がやめてしまい、驚いたが、この隙に活躍できるかもしれない。こういうこともあると、少し収入上がればいいなとも思うようになった。こんなふうに知識が十分でないのに、金の必要から出世したいと思い、出世していってしまう人がいるなら、一緒に働く人にとっても不幸だと言える。自分の身の程を知ることだ。
朝起きて頭無茶苦茶に痛かった。多分目を使いすぎたせいだ。赤いツボ押しのゴロゴロを持ってお風呂へ。なぜこうなった。お湯を飲みながらお風呂に入る。こんな時代にもお湯が飲めてお湯に入れるなんて幸せ者だな。
体を修復していたら出勤時間になってしまった。流石にこれではだめだと思い2,500円の椅子はやめて、22,000円の椅子を購入した。かなり悩んでやっと購入したので届いたら何でもできそう。2019年から2,500円の椅子で頑張ってきた。
会社で同僚と上司のよくないところについて愚痴を言ったりしているのだが、そういった愚痴を言い合える仲でも、その中には仲間から悩みを相談された時に、悩みを聞こう、何に悩んでいるのか想像しようという気持ちを持っている人とそうでない人がいる。
私は人に悩みを相談されると、その方法が強引でなければ、悩みを相談されて嬉しいし一緒に考えたいという気持ちを持っていて、態度もそのようにしているのだが、そうでない人が圧倒的に多いという印象を持っている。
「それを相談されても私には何もできないから」というような反応がかなり多かったりする。
私としては人の悩みを聞くことで自分の悩みが紐解かれたりすることが多いので、とりあえず悩みは聞くことにしたい。愚痴を言うだけでなく悩みを聞いて自分の考えを言うことのできる態度であると言うことは、すなわち自分で悪を批判するだけでなく、なりたい姿に関する考えを持っていると言うことだと思う。そうでなければちょっとダメだろうと思う。
関係ない話がここから始まるのですが、
youtubeで動画を毎日のように投稿している人がいて、この人は鹿狩りをしており、その肉を食べていると言うことで、たまにその動画を見ていたのだが、この人がホームビデオのような家族の映像を普通にyoutubeに公開していて、新鮮な気持ちで見ている。
私も子供の頃のビデオカセットテープを3本ほど持っているのだが、今でもそれが見ることができるのかわからない。何が写っているのか全く覚えていないので、今度見てみたいと思う。
動画を見ているうちに自分の親も生きていればこの動画の配信者くらいの年齢だっただろうと言うことがだんだんわかってきて、何か中毒性のあるもののようにずっと動画を見たりしている。
人は失われた夢や完全体の装備を懐かしむ時、その苦しさそのものを愛しているところがあると思う。でも別にそれは本気の苦しみじゃないのだ。ただ楽しむための苦しみというものが存在する。
本当の苦しみが楽しむための苦しみに変わる前に、悩みを持つようだ。そしてその悩みがどのように受け止められたかによって、その苦しみを楽しみのために思い出すときに、ついでに思い出される世界の印象が変わるのではないかと思う。
人の家のホームビデオをブログに貼ること自体、かなり変な行為の気がしているので、もしよくなければコメントいただければ消します。
最近愛読書がセネカの「生の短さについて」だという話をしたのだが、実際には多忙すぎて新たな重めの本を読むことができていないために結果としてこれが愛読書になっており、なんども読んでいるという気もしている。本当はもっとちゃんと読書もしたい。むしろ今から激しく働くより、歳をとって目が悪くなってから働けばいいとも思うが、そこから働くのはなかなか大変だろうなあ。体はとにかく健康に保たねばと思う。