いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

ブロロロロ

私に言わせれば

バイクはブロロロロなんて音を立てない

フォークはカチャカチャなどと音を立てない

本はパラパラなどと音を立てない

接着されていない紙と紙が風でばらけるように

いつも離れてしまう

 

自分が傲慢とかそういう話ではなかろう

水はポタポタなどと落ちないし

光はギラギラなどと感じられないし

大げさな人たちだ

物事はもっと静かに割り開かれて行くように

音はその動作に寄り添っているのに

 

どうも人間とはうまくいけない

光の中でいつまでも起きている必要などない

草木に包まれた部屋に住みたい

金金先生

土土土木

浮世の楽しみっていったいなんなのだ

それを楽しもうという賑やかさに

接着されていない紙と紙が風でばらけるように

いつも離れてしまう

 

だから自分のことを語るとき

今は昔という枕詞を欠かさず

その姿を隠す

私も違う意味で大げさなやつなのだ

疲れて帰って来る人のために

まともなことくらい書けないものか

 

 

 

特許法の本を読んで、思い出したのは、みんなでラーメン食べて寄ったスーパーマーケッ そこで笑いながら目の端に映ってた例のカティーサーク。少し心がえぐられながらまた話題に戻ったが、思い出すことはそのウィスキー飲んでた父のグラスで、グラスしか思い出せないのは、なぜこんな風なんだろうか。ま、つまりですな、あれも商標ですね。疲れて帰って来る人のためというか、自分のために、しっかりしたブログくらいも、書けないからなぁ。