いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

はやくやろ(メモ:心で価値を生み出すこと)

 私は大学生の中では飲み会にも一切参加しないし、交通費のかかるイベントにも参加しないし、服もあまり買わないなど、かなりけち臭い方だと思うが、けっして貧乏というわけではない。いうなら大学に入学した当時とかもっと前は本気でちゃんとお金なかった。その上に節約の仕方を知らなかったのでさらに悪い。あの頃を振り返れば、むしろ今の自分は人を助ける立場にあると考えてもいいくらいであると思っている。できていないけど。

 

 私は毎月予算を立てて、その予算の立て方も改善している。

 今月はこのしゃち(id:shachilog)さんのブログを参考に、全部を実行するというわけではないが、ジップロックで予算を分ける方法などを試みている。この方法を使うと外食を我慢して帰宅してから食事を作って食べることが増え、出費が減った。なぜって、ジップロックの袋に入っている一万円札の見栄えの良さは他に並ぶもののないほどだからだ。元々少し収集癖があるので、一万円札がジップロックに入っていると標本みたいで可愛く思える。まあ今日肉を買いだしたので崩しちゃったのだけど。しゃちさんこの方法を教えてくださりありがとうございます。私の場合はジップロックにレシートも入れています。レシートに印字されているロゴとかが案外かわいい。

www.shachiblog.com

 

 とにかく、努力ともいえない努力のおかげで、家庭の恩恵を受けながら今のところ自分の生活を成り立たせることはできている。東京という雇用がやたら溢れている場所に住んでいるということもあり、予算オーバーすれば日雇いで働くことも可能だ。しかし今は実家に住んでいるので、食費等は自分で賄っているとはいえ、自分で自分を管理しているとはいえない。家計簿を管理していると、やはり自分で就職して稼いで、全てを自分でうまくやりくりしたいという思いになる。

 

 ここからはちょっと反省みたいな話になるのだが、

 最近無意識のうちに、私の中で自分を「自分はこれでいい」と思えるようになるには三つの段階がある。と考えていた。

 

 ①まず、自分のことを自分で管理してうまく成り立たせる(自律・自立する) 

 ②次に、自分で社会のためになんでもいいから価値を生み出せるようになり、それでお金をもらえたり集められたりするようになる。(自分でお金を作れる)

 ③最後に、それを他者や社会に還元する(ちゃんと社会のためになる)

 

 今思うと私はこの考えの中でどんどん偏屈になってきていた。

 恥ずかしながら説明すると、これで見ると私はまだ①の段階にも達していなくて、人に助けられている。果たして私はこの三段階が、ほんとうに①→②→③の順に来るのかはわからない。こう格式張って考えなくてもいいのではないかなという気がしながらも、③ができるようになるには、やはり②ができなければ私には無理な気がする。なぜなら自分で②でないうちは、いつまでも貧乏に近い気持ちでいることになると思う。もし会社をクビになったら貯金を切り崩すだけといつも思って暮らしていたら、全然余裕を感じられないと思う。だからその段階ではまだ人の役には立てない、と考えていた。だから努力して早く③の段階に行かねばならないと考えていた。こういう自分の考え方だから、若い方が私に高いプレゼントを送ってくれると、実は結構動揺した。わからなかったのだ。

 

 みんな同じ人間なのに、人に贈り物をすることができることはすごい。そういう時に思ったことは、②の段階に達したと、確信できる人というのはあまりいないのではないか、そして私は凡人中の凡人であろうと思うので、きっと一生確信できないのではないか、ということ。そして何かの価値を生み出せるようになった人も、よく考えればいつ何時それができなくなるかという余裕のなさに追われてしまうのではないか、ということ。

 

 うーん、しかしさらにそこで思うんであるが、私はまだなんの価値も生み出せないと思っているだけで、それは間違いで、本当は価値を生み出せるし、ちょっとは生み出しているのではないか。例えば私は書店のアルバイトにおいて、自分が書店を好きで、数年間にわたる勤務の中で、書店についてお客さんに説明したり、そこらの大型書店では提供できないような、「絶版本は見つかるまで情報を探して、古本屋でも在庫がありそうなところは紹介し、場合によっては問い合わせるのを手伝う。できる限り。」などのサービスを自分の判断で提供することによって、店にとって利益を生み出したかは不明だが、あの場を借りて勝手に私の他人の悩みを解決したいという欲求を満たすとともに、お客さんにとっての価値を生み出していたのではないか。私はあの場でなんのスキルを披露したわけでもない。なんの資格を活用したわけでもない。ただ心を使った。あとは若者であれば結構当たり前に使えそうなネットの「日本の古本屋」検索や電話を使っていただけだ。こんなものはスキルとも言わない。

 

 使ったのはただの「気配り、目配り、心配り」だ(教習所の教官が営業三原則と言って私に教えてくれた。気配りと心配りは同じことじゃないかと思ったことは内緒だ)。私は無意識に、②の段階に達するにはなんらかの資格とか海外経験とかまあそういうありがちなものが必要だと、大学生を取り巻く情報によって流され思い込みがちだが、何も持たない人が心だけで価値を生み出したり、価値を生み出す努力が元々は心から生じていることは、古今東西あまりあるほどの逸話が語っている通りだ。(と思ったが適切な逸話が思い浮かばない。なんとかしてちょうだい!とにかくそういうことにする!)

 

 そもそも私が法学部の連中に違和感を感じてたのは、「弁護士になって人を助けたいです!」とか言っている人なのに変に差別的で、一度犯罪に手を染めた人にはとことん厳しかったり、不倫をするのは人格が終わってるのでとことん追い詰めて切り捨てるべきなどと断言したりなど、助けたい「人」の範囲がすこぶる狭く、バッサバッサと切り捨て、オメーの助けたい人は一体何に苦しんでいるというんだね?という感じで、つまり「弁護士になってどやーってしたいぜ!ってことでしょ?」と思うしかないような人たちは「これは違う」と思っていたからではないか。私の心は彼らとは違うと思ったからではないか。

 

 そして大学入学当時には私は大変視野が狭く、何事も思い込みがちだったのだが、それでも誇りに思っていたのは、自分の心で、それ以外何も誇るべきものはなかったけれど、人の痛みがわかることを自信としていたのではなかったか。この心は、ある種他人とは違うものだ。だから、この心は価値を生み出せる。他人と同じものだったとしても、私はこの心を押さえ込まずに大切にしてきた。だからスキルや資格ではなく、この心を社会や他人のために役立てて価値を生み出そう。この心を発揮するために資格やスキルが必要なら、それも身につけることになるだろうけれど。

 

 宣教師が外国語を覚えるのと同じかな。まず心があって、そのために言語を学ぶ。なんか、そうか私にほしい物リストからプレゼントをくれた方々も、素朴にそんな風に心でプレゼントをくれたのかなあと思った。心とスキルが逆転しないように、って、それはわかっていたことだけれど、わかっていたようで忘れて流されそうになり、三段階などという考え方を無意識のうちに作っていたのかなあ。もし心で生み出した価値が、世の中に賞賛されたり、転職で有利になったり、就活勝ち抜けるものでなくてもいいやと思った。私はこの世界で、この会社で、この土地で、このネット上で?心を使って価値を生み出せる。そしてそれが価値であるかは、全く関係のない他人に判断してもらわなくてもいい。誰が判断するのかは微妙だが・・・誰も判断しなくって良いという説もある・・・自然と評価されるなんて甘いことは言わないつもりだけど・・・

 

 私は自分の心で価値を生み出す場面が目の前にあるのに、自分はまだ価値を生み出す場面ではないと遠ざけて、結局なんの役にも立たない存在になろうとしていたのかもしれない。いつでもわかっているようではあるけれど、ふと油断すると資格やスキルと心の重要度が逆転しそうだ。だからここに書いておく。あー、っていうかこのブログ本当に面倒臭い若者のブログですね!

 

 他の人が見ているテレビの音を聞いていたのだが、テレビでやってたことによれば道元が中国に渡ったのは24歳の時だったのだそうだ。私と同じ年かな。

 

  後この記事を書いてやはりあの書店でのアルバイトでは色々と学ばせてもらったのだし、賃金をちゃんと払って、これからもつまらない問題を起こさずに末長く健全な経営を続けて行ってほしい。と思ったので、それも含めて今後の対応をしたい。

 

 ここからはまた話ちょっと変わるのだけど、新小平駅というところでバイトしてきました。初めて降りた駅なので写真をば。

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ここでカレーパンとごぼうサラダというパンを買った。特にカレーパンがうまー!ごぼうサラダもめちゃ美味しい。ごぼうサラダはパンの名前ですよ。

レシートの文字が薄くなっちゃったとのことでペンでおばちゃんがレシートに書き込んでくれた。ありがとうおばちゃん。パンめちゃ美味しかったです。

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  来月から個人店で買い物するための予算を作ろうかなあ。ずっと続いて欲しいし。

 今日もバイト先で、私を呼んでくれた人がタリーズで500円もするシュトーレンラテを奢ってくれたんよ。ただのバイトの私なのにそんなこと自腹でするのって、なんでなんだろう、と思っていたけど、そのあとなんか自分がわかっていないなあという感じをずっと受けていたんだよね。こないだまでプレゼントをいただいた時も、何かおんなじことを考えていて、今日、これを書きながらそれが少しわかったという感じかなあ。

 

 こないだお隣さんがりんごくれたんだけど、「すみませんうちに今何もあげるものがなくって」と私が言ったら、お隣さんが、「いいのよおすそ分けなんだから」って言ったのよね。私にはその意味がわからなくて、ここのところずっとそのことが心につかえてたんよね。ちょっとわかったのかなあ。他人のことまでわかったなんて思うのは思い上がりかもしれないけれど、自分にはこれからそんな風に考えることができそうだな。これは心の発露なんだって。

 

 私がいつも読んでいるブロガーさんが、他の人がほしい物リストから欲しいものをもらっている記事を見ると、幸せな気持ちになる、みたいなことを書かれていた気がする。奇跡みたいなものじゃないか、とか書いていた気がする。照れ臭いので引用とかしないですが、今日思ったように考えると、確かにこれは奇跡だなと思う。心で価値を生み出そうとしても、それが他人が求める価値と合致することなんか、そしてそのタイミングがマッチすることなんか、奇跡みたいなものだな。人の心を見るようなものだなと思う。

 

 ここんとこそんなことが重なって、神がいるなら髪が私に気づかせてくれたのかな。あーでもこのブログ本当に悪文で申し訳ない。えっ今日のブログめちゃ長くない?高校生の時もこんな長い文章書いていた気がする。