いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

哲学ってなん?(この記事は哲学よくわかんないに始まり、よくわかんないに終わります。)

百度46/100

 久しぶりにとろけるチーズを買ってしまった。大豆をふかしてカレーペースト(エスニック風のやつ)で炒めてチーズかけてチンするとめちゃ美味しい。そしてちゃんと痛い口内炎になったのは久しぶりという気がする。適当な食事ばかりしているからこんなことになる。けど寒いからついついカロリーありそうなものを食べてしまう。

 

 なんかメガネが曇ってるので拭かなきゃなのだが、なんか拭いてもすぐ汚れる。目から何か蒸気的なものが出てるのかな。

 何かちゃんと書きたいことがあるときは、ノートパソコンで書くのだが、最近もうノートパソコンの電源がすぐなくなるから書く気が萎えてくるー。

 

 色々ときになることがあるから、このように言葉がツンケンしてしまう。紙ゴミめちゃ捨てた。旦那の家の猫ゆずの調子が悪い。旦那の家の猫は家の中に入ったり外で走り回ったりしていて、家猫のような野猫のような、いいとこ取りの生活をしている。猫は私のことが嫌いで、しかも感情が顔に表れやすいので私を見てすごい顔している。最近吐いているので心配。ちなみに私は猫ならなんでも好きなので片思い状態。

楽器とカメラを売る準備。両方合わせて五千円になればいいかなと言うくらい。たぶんもっと安い。

 

 昨日の記事で、「哲学」について色々なことを教えてくださり、ありがとうございます。

ところで私は哲学とそれ以外の境目よくわかってないし、哲学本とそれ以外を分けられてないのだけど哲学って何?みなさんコメントで教えてください。ググらないで教えてねっ

自分はこう思っている、というのでいいので。

 昨日の記事ではこんな質問をして、そのことについて何人もの人が教えてくれました。ググらないでとお願いしたのは、ググると最初にウィキペディアとかを見ると思うのですが、私も哲学のウィキペディアを見たところ全然意味がわからなかったからなんですね。上位検索結果をのぞいても腑に落ちなかった。下にもらったコメントのそれぞれを引用させていただきたいと思います。順不同です。

 

 

 スイミン(id:skyaya)さんの言葉

哲学…。うーん、うーん、専攻じゃなかったから、あまりわかりませんが、ブコメで詳しく書かれていらっしゃる方の言う通り、「哲学です。」と銘うてばすべてそうなりますね。図書館での扱いの違いを言うなら、世に言う「哲学者」とされる人の哲学書は哲学コーナーにあるけれど、なんとかの哲学、みたいな、学者さんたちが書いていないような本は思想・哲学コーナーにはない、みたいです。たぶん……。

  私の考えたこと:ありがとうございます。私も専攻じゃないのでよくわかんないです。確かに、図書館では「哲学コーナー」に入る「哲学」がタイトルに入っている本と、「哲学コーナー以外のコーナー」に入る「哲学」がタイトルに入っている本がありますよね。そのことは言われるまで忘れていました。あと、タイトルには「哲学」とは言っていないのに、帯に「◯◯の哲学」と入っているようなのもありますよね。あと哲学とか言ってないのに、アマゾンで検索すると「哲学」に関連づけられて出てくる本もありますよね。

 

 例えばこんな本は「哲学コーナー」に置かれて

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

 

 

 

  

 こんな本は「哲学じゃないコーナー」 

人生を黒字にするお金の哲学

人生を黒字にするお金の哲学

 

 

イ・ボミ「愛される力」  日本人にいちばん愛される女性ゴルファーの行動哲学(メソッド)

イ・ボミ「愛される力」 日本人にいちばん愛される女性ゴルファーの行動哲学(メソッド)

 

 

 

哲学者が伝えたい人生に役立つ30の言葉 和の哲学編

哲学者が伝えたい人生に役立つ30の言葉 和の哲学編

 

  こんなんはなんか自己啓発コーナーに入れられそうでもある。どうなんだろう、哲学コーナーかな?

  

 

 そういう図書館での分類も、私のよくわからない感に拍車をかけているように思えました。というか、「哲学者」ってなんなんだろう。現代における哲学者っていうのは、専業で哲学本を書いたり、論文を書いている人なのだろうか。その本質は昔の「哲学者」と変わらないのだろうか?

 

 図書館での分類は、あくまで便宜的なもので気にすることはない、のだろうか。でもその「便宜的」ってのがなんでそうなってるのかわからないです。図書館学とかやったらわかるようになるのでしょうか。

 

 もしかしたら、哲学の本?の大部分は哲学コーナではないところにあるのかもしれませんね。

 

 

 余談だけどこの本面白そうですね。ニーチェは「哲学者」かなあ?

 

わっと(id:watto)さん

ドクター・オブ・フィロソフィーと言いますし、元々数学も物理学も哲学の一出張所だったわけで、その人その人が生きるのに必要であれば、現在においても数学であれ物理学であれ、その人にとっては哲学だと思います。

 私の考えたこと:ありがとうございます。その人が生きるのに必要、というのはあんまりピンとこなかったんです。それらのうち何がなくても人は生きていけるじゃないですか?きっと精神的な「生きる」の話なんですね。またなんとか「学」とつかないものでも「哲学」と呼びうるんでしょうか。 例えば寒い時にはエアコンのスイッチを入れる、毎日6時に散歩する、キリスト教徒でいる、接客をするなど。私にはやっぱり生きるのに必要ということがよくわからないように感じます。私の感じ方の特徴のためかもしれません。

 思ったのは、もし数学をずっとやっている人が、もし数学を奪われ、やらないようにと言われても、それ以外のことをやっていたら自然と数学の方法で考えてしまう、そういうのがあれば、それは数学が自分の生きている場所では生きてしまう、ということだから、言い方を変えれば数学が生きるのに必要、と言えるのかなと。そういうことでしょうか?うーん、よくわかりません。

 

Tatsuyang(id:Tatsuyang)兄貴

哲学ねぇ…自分はこう思うという事を突き詰めていく事ですかねぇ(´・ω・`)それは信念かwムズイw

  私の考えたこと:ありがとうございます。突き詰めていくっていうのは、「こうかな?」と思ったことを仮定として、それを証明していくみたいなことでしょうか。信念というと行動理念、みたいな感じがする。もし証明なら、閉じてる感じがする。なぜならそれは証明する内容があらかじめ決まっていて、証明になる事柄を集めることが中心になるから。信念なら、信念を持っていろんな活動をするので、オープンな感じ、開いている感じがします。でもなんか頑なな気もしますね。自分でこう決めている、って感じがして。なんか哲学って聞くだけでむずいって思ってしまうし、自分はそんなニーチェとか読んでいないし、じ、実存?みたいになって嫌になっちゃうんですよね。なんかむずいってのがやです。法学とかも、法学?むずいし、ってなりませんか?なんかそれが嫌で遠すぎて法学部に入ってみたのですけどね。

 

yonhonda(id:yonhonda)さん

私にとっては、それまでの人生で感じたことや考えたことの集大成のようなものでしょうか。。なので日々変わっていきます。

 私の考えたこと:ありがとうございます。なんとなく私それわかる気がします。なんかそういう、日常に対してオープンな感じは好感が持てるというか。変わっていくことにもオープンでいる姿勢が快い、というか。日々の積み重ねの集大成、というのはわかるなと。これと信念は同じなのでしょうか?なんで人は信念というようなものを持ちうるのでしょうか。単なる傍観者にならないためでしょうか?観察しているだけではずるいからでしょうか・・・自分はなんかたまに、このまま人生で感じ続け、考え続けてそれを真に受けたら、頑なな人間になって何かを見落としてしまうんじゃないかと感じます。なんか変なこと言っちゃいました。

 

 那賀乃とし兵衛(id:suganokei)さん

哲学とは人それぞれの「考え方」のこと。哲学者には哲学者の込み入った「考え方」があると。/こちら、先日書いた記事です。→「よく聴いて、よく喋る」それが語学の王道です http://dimofsoul.mitona.org/entry/englishHowto

 私が考えたこと:そちらの記事、以前に拝読しました!私もTOEIC確か650点で、特に旅行のとき意思疎通に問題を感じたことがない程度ので、記事の内容にはわかる、と思いました。でもわかるって思ったことを忘れていたんですねー。恐ろしい注意力の欠如ですよね。脳みその中でそれが自分の語学の問題と関連づけられていなかったんですね。こういうこともあるので気をつけなければ。思い出させてくださりありがとうございます。

 考え方が哲学ってことは、哲学ってその人の性格みたいなものなのでしょうか?

 

 

 

 

 それで私は自分でも哲学ってことについて考えてたんですけど、 

 私一時期知恵袋で、一日五つの悩みに応えることを趣味にしてたんですけど、たまに自分で思っていることをこの悩んでいる人に伝えて、なんの意味があるんだろう、って感じることがあったんですよね。なんか私の考えている原則に当てはまらなさすぎる領域の人がいる、と思って。

 

 法学部なんかでも、大きな事件とか事故とか災害などが起きるとなんかこの原則を当てはめてこの人たちのために一体なんのためになるの?と思わざるを得ない時が来るんですよね。それで、いろんな人が来てこれも法律の問題じゃないか、と言って来る訳で、でも法学者は本来これは法学で取り上げてこなかった問題ですとか言って、その意味は多分「それは法律の領域じゃない」「そんな感情的なことばっか法学に取り入れてらんない」ということなのね。

 多分哲学でもそういうことがたまにあるんじゃないかと思って。今までの哲学の原則では「それをこの状態について言って何になるの?」みたいなことが起きて、それで普段は何かの原則を考えていた人の中から新しい原則を考える人が出て来る。

 それが哲学のあたりで起きていることなのかなと。

 

 前に「マルクス・アウレーニウスはストア哲学を知ると生涯その思想を守り、変えなかった」みたいな文章をどこかで読んだのですが、それ意味わかんないと思ったんだよなあ。それって外から見たらストア派の人たち界隈にいる人で居続けたということだけで、ただなんか基本的な原則として採用してるのがストア派の人たちも言っていたことと共通してるものが多かった、ということで、生涯その思想で、とかそんな宗教みたいなものとして言及するべきことなんかこの世にあるのか?と感じてしまったよ。

 

 それは多分私が、哲学って原則というか、昔に誰かが考えたことや、今の人が考えて居ることをわかりつつ、でもそれを今言ってなんになるのか、何にもならんじゃん、残酷じゃん、という場面について自分なりに考えたり突っ込んだりすることなのかなって自然に思って居るから、変だなというか意味がわからない文章だなと感じたのだと思うのだよね。

 

 だから私は哲学ってそういうことなのかなと、思いました。何かと自信満々な人とか気に触る性質だし、自信満々な姿勢で押し通して来る人とか見たら、正直そんな方針を主張したところでこの状態になんになるの?って思ってしまったりするよね。でもすぐに代替案は提示できない。それでもおかしいってことはわかるから考える。それが哲学ってことかなと思った。問題解決したい中毒なのかもしれないけど。で、なんか哲学とかいうジャンルがあることは理解に苦しむなというのはやっぱり思っていて、哲学史ならわかるけど、哲学はよくわからん。

 こないだ言及していただいたこの記事の、違和感の話、ちょっとこの哲学の話に共通して居るところがあるのかなと思った。言及ありがとうございます。今度また書きます。

dimofsoul.mitona.org

 

 みなさん自分がコメントしたことについて、私が解釈おかしいとか、うわーナイワーというようなコメントして居るところもあると思いますがすみません。お許し。

 

 

 という訳で話は変わりますが、ゆたさんにお会いしました。ゆたさんとパフェは同じ日に生まれたかと思うくらい似合いますね!下の写真はゆたさん。載せていいとのことでしたので。このこともまた書きます。

f:id:giveus:20180217214710j:image

 

いまめちゃ大切な試験控えてるのにお母さんはインフルエンザかかってきたんですよ。大学入試の時もこうだったんだけど。一応書いとくけどめちゃ親切に看病してるでございますから!