いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

久しぶりにノートPCを開いて日記を書いている

もう最近はスマホでなんとか息絶え絶えにブログを更新しているという状態だった。でもやっぱりブログはPCを開いて描きたいものだと思う。スマホで適当に書いていると、なんとなく雑な感じで自分もアウトプットとして満足しないし、人を嫌な思いにさせることもあるだろうと思う。それに私がアウトプットで一番重要だと思っている内省につながらない。

 

昨日「旅をする木」という本が嫌いという趣旨のことを書いたのだが、私はこの本がエモいだけの本だから嫌い。エモいというのはここでは、「感情的な・人の感情を揺さぶる」という意味で使っている。

 

この本で取り上げられていることは、

人は外部の刺激によって呼び起こされた感情に導かれて育ち、変わり、感情で人と交わって交友を育める、というようなことだと私は思った。まさにこの主題の取り上げ方こそが私がこの本を嫌いな理由で、また著者がそういう人生の最後に自分が興味を持って撮影していた熊に食われて死ぬという死に方をしたことも、大変嫌うべき事柄のように思える。いや全体的に穏やかな気持ちでコメントするならば、別に他人のことだし、好きに生きて好きにしんで、それでいいのだが、何かコメントを求められるとすれば、嫌いというのが感想である。特にコメントする必要もなかったのだが、これはブログなので、自分の考えを書いて良いと思う。

 

この本の中ではよく人が死ぬような気がするのだが、人が死んだ後の美談みたいなものが感情的な調子で語られている部分が必ずついてくる。私もたまに死んだ人についてそんな風に書いてしまうことがあるのだが、これがとても嫌い。死んだら人間はそこで終わりだし、そのあとに誰かが感情的にその人のことをどう思おうが何の用も足さない余分なものだと思う。死に様でその人を評価するみたいなのがとても嫌だ。まるで死んだことが偶然のように最後に出てくる年表式のものが良く、死んだのは人生の集大成みたいな扱い方をされているものは嫌いだ。また死んだのをその人の生き方の因果応報とか、想定できる結論みたいに話すのも嫌だ。たまたまそこに死があっただけで、私たちにもたまたま明日死があるかもしれないではないかという考えがある。私がもし死んだら何も語られないか、もしくは年表式に語ってほしいものだと思う。

 

唾棄すべき死人の扱いをしている人については、その人の本のあとがきもまた唾棄すべきようなことが書いてある。好きなことをしたからいい人生とか、そんなこと。好きとか嫌いとかの違いをはっきり言わなければいけないこの社会の鏡でしかないと思う。私には好きなものも嫌いなものもはっきりしない。そういう人間が思ったままの回答をできてそれが自然と思われるようになってほしい。生きたくて生きているのか、死にたくて生きているのかとか、そういう二極に分けるのをやめてほしい。私には何一つ二つには分けられないのだから。

 

感情的な内容を、ただ感情的になった経緯を書いて、他人にもそのような気持ちにさせることは私にもできると思う。かなりできる人は多いはずだし、それをできる人よりも多くの人が、他人が書いたものを読んで、一緒に怒ったり悲しんだりできる才能があると思う。だからヒット映画が生まれるし、音楽も流行る。

 

けれどもそれを見て何らかの改善をして、世の中を増しにしていこうと思わなければ、そして自分が何を感じたのかをシェアするのではなく、自分が何をしていくのかを知らせて批判を受けることを受け入れないなら、それはただの耽溺で、見ていて気持ち悪いと思う。

 

こういうものを読んで、人は自由な気持ちになったとかいうのは言えばいいと思うけれど、それは耽溺の自由で、自分を明るい方に苦しい方にちゃんと引っ張り出してくれる自由ではないと思う。生きていることは苦しいし、戦う必要はあるのに、耽溺するだけなのかと思う。耽溺の中で食われて死んでしまうとは、不思議なことだと思う。

 

統治の方法に理屈がなく、人の命が重視されていない社会環境にあっては、私のように耽溺することを嫌い、人の感情に耳を傾けない人が増えてくるかもしれない。もしくは反対に、耽溺する人が増えるのかもしれない。はたまた耽溺しつつも現実の市民の悲しみには耳を傾けない人が増えるのかもしれない。

 

コロナ渦を通して、自分の中では生きていることこそが自分と他人の価値だと思う気持ちが強くなっており、また感情に従って行動する自分の愚かさを強く軽蔑する気持ちにもなっている。例えば、自分と家族の感染のリスクがあるのに、東京にとどまり、通勤をするなどのことを、続けていることについて、退職した後の周囲からの目を恐れるなどの感情に従って理屈にかなわない行為をしていると軽蔑している。自分のことだ。

 

人はストーリーを求め、ストーリーのあるものに理屈が通っている、論理的だというけれど、ストーリーは感情であり、本質ではない。自分がどのようなリスクと可能性をどのように考え、どのように他の選択肢を検討し、最終的にそれを選んだのか、それは後から他人に話しても、その環境を経験していないのだから理解されないこともある。そういう本になれないような残虐な選択(他の甘やかな可能性を切り落としているから)について、ちっとも触れないで、見た目の美しさや、まるでカルタの文句みたいな無理やりにフレーズ化した人物像ばかり取り上げて、あまりにも救済からは程遠い書物だ。

 

で、私は救済を求めているのか?もちろんいつもそうだ。本を読むときも学ぶときもいつも。というわけで私はこの本が苦手という話でした。この人は自分だけが救われた。でも現にこの人の本を読んで救われたとか自由になったとか言っている人もいるわけで、私から見ればそれはひどい満足であったとしても、私よりは世の中の足しになっていることは確かにそうだろうと思う。

 

またこの当時にしたらこういうものを見て本当に人の心は救われたのかもしれない。現代でもこれで心救われる人はいるみたいだから。でも現実には今、私たちの苦しみはこんなものでは癒しを感じられないのだと私はイライラしているのだ。

 

とにかくどうして自分はちゃんと、計画したことをできないんだ、どうして力が及ばないんだと思って、いろんなことがイライラする。というただそれを言いたかっただけなのかもしれない。

 

旅をする木 (文春文庫)