仕事でいつもすごい人に会う。知恵と知識がとてもある。私も知恵と知識をつけたい。仏陀は知恵があり知識を得て悟ったという。それからとても幸せになったと。私がもしその時仏陀であれば、と想像するとき、どのようにヒンディー教徒が話しかけてきても不動の理論を手に入れて戦い抜けるとわかったのではないかと思った。違うかもしれないけれど。
私はどのような人間であれ戦うべき戦いがあればそれを戦い抜ける社会が良い社会ではないかと思っている。知恵がなければ戦い抜くことはできない。より優れた知恵を持つ人に破れてしまう。様々な知恵を持つ人たちと手を組みあい、主義主張は違ってもお互いの主義主張を戦い抜けるようにしたいような気がする。自分だけのために何をしても一切は虚しく諸行無常。ヒンディー教の教えのように現世で自分が一生懸命耐えて仕事をしてダルマ(法)を守っていれば来世で良い身分に生まれるようなこともない。死ねばそれで終わり。裁判や戦争はしないまでも、心の中に無敵の理論を装備してこれで対抗できることを常にお互いで確認しあって安心して生きていこうというのが仏陀とその弟子の仲なのじゃないかなーと思った。多分違うけど。
一切皆空と悟った仏陀はいままですべてが因果応報という世界に生きて苦痛を感じていたから一切皆空と悟って幸せになれた。しかし私達は一切皆空と因果応報の両方の理念のある世界で生きている。すべてがあるという考えとすべてがないという考え方。
しかし私達は一切皆空という考え方と因果応報の両方の考え方と一緒に生きており、子供の頃からその両方の考えかたに苦しめられている。
多額の献金とか壺を買う行為はその両方を満たして現代の我々を満足させる。蓄財をやめ、一切皆空であるから、因果応報のために金など使ってしまえば良いと。それで何かが得られなくても一切皆空。死ねばそれで終わり。救われるチャンスに最大限賭けている私を感じることができる。