いのちばっかりさ

生きている記録。生業。通信制大学。天平の甍、生の短さについて、狼煙

タフを演じてしまう

  わたしはガサツな方だから、せめてタフじゃないといけないという意識がある。わたしは酒を一滴も飲みたくないタチだ。すでに脳の一部がおかしいのにこれ以上脳細胞がうんちゃらなどという液体を美味しく飲むことはできない。

 

 しかし実際には誘われれば飲むし、飲めるかと聞かれれば、高確率で「のめますー」と答える。「ヨーグルト食べて飲めば大丈夫です」とかもいう。本当は飲みたくない。酒を飲めばその後の貴重な時間の精度が下がるし。

 

 わたしはいいことを聞いた。

 北海道の会社では飲み会と仕事が直結しないらしい。会社ではみんな個人プレーで、人の仕事に立ち入ることを嫌うらしい。北海道の会社を受けようと思った。地方と東京、東京でずっと育ったわたしだが、案外地方のほうが良いのかもしれない。

 

 それにしても、大学の成績を面接時に提出することをどうして知らなかったのだろうか。なぜわたしにはここまで情報が欠如していたのかと考えれば、ひとえに直近の未来について具体的な動作を考えてなかったということに尽きる。わたしには将来は家族と離れて静かなところに暮らしたいというような、曖昧な未来の理想しかなかった。それではいかんと思う。

 

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図書館に本を取りに行きそびれ

図書館の本の取り置き期間は1週間である。忙しすぎて1週間以内に受け取りに行けなかった。なんてことだ。読みたくてたまらない本を取りに行く時間もないなどと......このようなことが......図書館の人を働かせてしまった。

 

 

というか、自ら進んで登山とかいってるからである笑

 でも登山にいくのは大変健康に良いと思う。この局面では精神的にうちのめされて動けなくなることだけは避けたいので、積極的に自然に身を晒し陽の光を浴び人里離れるべきである。まあ楽な時にはきつい時のことなんて忘れているのだが。

 

水一杯とっても都会の水とは違う。とにかくおいしい。木の葉一枚とっても都会の葉とは違う。人間にとっての自己実現なるものを私はうまく理解できないが、植物にとっての自己実現とはこういうことだろうと思う。

 

自己実現というのは意思がないものには不可能な概念なのだろうか。つーか意思ってなんなのかよくわからないな。法学部一年からやり直し。

 

いろんな人のブログを読んで自分の性質について気づかかとが多い。そんな今日この頃。面接で、ストレスを感じる時どうやって解消しますかと聞かれたのだが、いろんな方法がありすぎて話しすぎた。どういう趣旨の質問だったのだろうか。

 

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元気である

静かな場所に住みたい。また山に行ってきた。

 

就職して家賃補助をもらえたら、静かなところに広めの部屋を借り、通勤時間に本を読んで自分なりの生活スタイルを確立したい。

 

会社にとっては新卒採用ってやつが一番高い買い物らしい。リスクを考えれば就活がこのように無駄の多いものになるのは仕方ないらしい。そうかも。なら新卒正社員採用やめたらいいんじゃないかと思う。新卒→インターン→それ以外の採用→正社員採用→中途採用の流れが一番普通というか納得できるやつだと思う。

ふえー

 

 

ハローワークに行ったら、希望職種シートなどを書くのだが、その時に最初から正社員のところにマークされていた。

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When being extreme,

 第一志望の企業に落ちてしまった。テスセンとウェブテストとエントリーシートで落とされた。

 

 正直、本当にいい会社だと思っていた。落ちても中途で目指しますくらいはいわせて欲しかったが、面接にも呼ばれなかった。

 

 でも全然ショックを受けていない。LINEで流れてきたお金が当たるクジびきに外れたくらいの感じしかない。実際エントリーシート出して通過する確率もあのクジと同じくらいになっているし。

 

相当確率低いな(LINE使ってない方わかりにくくてすみません)。

 

 今日は新宿の若者ハローワークで、自己分析のやり方を習った。ハローワークの講座は全部無料で、しかもとても親身だし、人間としても安心できる方針で教えていると思う。

 

 この講習については今度書くかもしれないし、書かないかもしれない。 詳しく聞きたい場合はコメントしてください。

 

 だんなとお城にでも行ってゆっくり話をしたい。全てが早すぎて、世間に付き合わされている。世間に生きている私とは感じられない。私は世間とはかけ離れた存在で、私が生きていて、違う場所に世間があるとしか思えないのだ。そして世間は私に影響を与えている。

 

 面接の時にそのような態度がでてしまわないか気にしている。唇が荒れた。俺ってまじbeing extreme?

 

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山に登ったら筋肉痛で寝すぎた

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山に登ったら筋肉痛で寝すぎてしまった。2日連続で富士山を神奈川と山梨から見た。神奈川から見る富士の方が好みである。しかし好みとか言っても見ているものは同じ富士なので、なんかこういうのは人に似てるなと思った。いろんな面がある。電車賃往復千円以内なり。もうこれ以降の面接はすっぴんで行くことにした。

 

幼児化 ママとの絶望

 子供にはいろんな種類の人がいる。私の母は、私の種類なんかには興味がなかったし、子供というのは愛してるよと言っておけば感謝してくれるものと思っているようである。実際には子供には様々なタイプ種類がある。

 

 最大の問題はどのように金をかけてやるのが一番いいか、という点について様々な種類がある。その子供の種類にあったお金のかけ方をしないとダメで、まるで金も子供からの愛情も丸ごとダメにしてしまう。

 

 でもその前に大前提として、言語を学ぶことがとことん不得意で手のつけようがないという子供以外に対しては、商用に便利な外国語(できれば学校で習う英語以外にスペイン語や中国語など)を習わせておくことは子供のことを思うのなら良いことだと思う。もし将来その子供が発達障害とか突然の事故とかでうまく世間のレールに乗れなくなったとしても、その時に情報を集めるにしろ、突破口を見出すにしろ、理解できる情報量が何倍にもなる。またその外国語の能力で食べていくこともできる場合がある。この外国語は生はんがな教え方ではなく、ちゃんと継続して大人が通う教室などに通わせて学ばせるのが理想だ。そして自分は子供に勉強の話をするときどうしてもイライラしたり、詰問的になってしまうと思ったら、絶対に勉強のことに触れない方がいい。

 

 もし勉強のことに触れないことの弊害として、あまり子供の性に合わない言語を学ばせていることに気づかないで学び続けさせたとしても、学んでいるからには少しずつ積み重なって理解できるようになるのであり、そういう状態に怯えさせないで置いておくだけで、暴言を吐きかけたり叩いたり追い出すぞと言ったり、ママもう泣いちゃうとかいうよりも百倍は良い効果がある。子育てに向いてないならお金をかけて放って置いてくれればいい。ママ泣いちゃうとか、ママ胃潰瘍になるとか、ママもうお仕事疲れちゃった動悸がするのとか、そういうのは一切やめてくれ。ママは休日は友達と登山に行くなりなんなりして、未来にわたって健康な身体を維持し、子供に迷惑かけない様子を演出してくれ。少子高齢化社会において子供にはそれがとても助けになる。

 

 さらには、「ママは子供のことを思っているから、やりたいことがあるなら言ったらいいのに」と言いながら、「金がない」と言いながら、高い服を買ってくれたり、「ママはボーナスの日に子供にケーキを買ってくるのが一番うれしい」などというのをやめてくれ。子供がやりたいことを伝えてこないと思ったら、それは子供はもう親にやりたいことを言いたくなくなっているのだから、本当に出してやる金があるなら、金をあげてくれ。餌で喜ぶ猫じゃないので、何回も「美味しい?」と聞いて「笑顔で可愛いねえ」というのをやめてくれ。本当は子供だってケーキなんかいらないのだ。金が欲しい。お金があればなんでもできる。

 

 子供にはそれぞれ種類がある。多分それを見分ける力は親にはない。そういう力を持っている親もいるが、なかなかいないし、偶然かもしれない。とにかく、ママはあなたたちのために働いてるのとか言わないで。ママはママのために働いて、ママがもしも私のために少しでも生きてるなら、そのことは言葉じゃなくてお金を渡して、「好きに使いなさい」ということで示してくれ。

 

 出かけるときついてくるな。出かける先を紙に書いておいておけとかいうな。世界のどこにも逃げ場がない。こうなったらもう知られない場所でセックスするくらいしか自由なんてないから。やりたいことがあったなら言えばいいのにというが、言えるわけがない。私がやりたいことは、私だけのもので、私が触れたものをママが取り上げて「あー、こういうのやりたいんだね、可愛いね。将来のためになるよ。」と言ってベタベタ触ったら、もうそんな物二度と触れたくはないんだよ。ママは本当アホだからさ、寂しい時だけそうやって、そうやって動悸がしたり、お仕事で疲れちゃったりお酒飲みすぎちゃったりするんだろう。ママは本当アホだからさあ。

 

 とか直接言いたい人生だった。でも直接言っても、「なんだ思ってたなら言ったらよかったのに?まだ反抗期なの?可愛いね」っていうんだよね。もうねえいつもママが色々言ってくるじゃん。私はいつも抜け出せないと思うんだよね。ママはそうやってさ、いろんな技を持ってるじゃん。「やりたいなら言えばいい」というのはママが言ってもなんの意味もない言葉なのだ。ママに一番やりたいことを伝えたいなんて思うわけないんだからね。いっそ触れられるくらいなら秘密にしておいて、定年退職後に自分の楽しみとしてやればいいとか小学生で思ってたからね私は。

すっぴんで面接に行った

 すっぴんで面接に行った。なんだかどうなんだろう?この方が自然に振舞えている気がする。

 

 

 なんにしろ、つかれたなあ。言葉を話していない瞬間、面接官の目が無表情になるのって怖いと思った。面接終わった後ってどうやって帰ったらいいのかわからなかった。火事が起きていた。

 

 

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mainichi.jp

東京タワーが霞んでいて、ずいぶん今日は雲が低いんだなと思ったが、そんなことあり得ないだろうと思っていたら消防車が走って行った。

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まじかよ……つら

 なんかLINEのあるグループに加入したら、すごくチャラいやつに絡まれてしまって、ほんとにこんなのいたのか……しかも夜中に電話かけてくるし。ほんとか……もう、ほんとかよ。昨日就活終わったから飲もうって言ってくるし。わたしはまだ終わってない……えええほんとか。ほんとにこんな人いたのか。こわー

 

 直々にチャット送ってくるし。なんだか長い付き合いになりそうだし、つらいなあ。

 

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ちなみに横書きの中でも読みやすいものと読みにくいものがあるとわかってきた。

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おかしなやつに出会った時は、その人がいない時と同じように日々の務めをこなすことがわたしのためになりそう。そのために日々の務めが必要なのかも。

本当に後世に残せるものは何か(死んだ後こっそり知られること)

 本当に後世に残せるものとは何か。自分が生きた証を残す手段について。

 

 私は実のところ、別に自分の生きた証を残したいとは思わない。私は今生きているような感じだし、多分生きているんだろう。私に家族はいらない。仕事もいらない。ただ何らかのミッションを設定してこなそうとしているに近い。うるさい人が死んだ後、ふとあの人は何を考えていたんだろうと気になり出すことがある。そんな時には私は彼の論文をどこかから探し出すことができる。

 

 彼のFacebookには彼はいない。基本的にあれは虚偽の塊だからだ。しかし彼の論文は、それはたとえ古いものであろうとも、学生時代をかけて書いたものならば、彼の思考のコアな部分の残滓が少しはあるものだと思う。私は彼の論文を探し当てようとしているのだが、すこぶる古いものなので手間取っている。

 

 私の所属している学部では、論文を書かない。卒業論文は、その時自分が置かれている環境、自分の興味、それに対する自分の意見を反映するものだ。まるで今の自分と時代を真空パックにするみたいに、生きた証を残す。論文を通して、死後にこっそり知られることを彼はどう思うだろうか。

 

 私は決してその人に肯定的な気持ちは持っていない。むしろ、死んだ後に思って見ても人間としてかなり危ういレベルだと思う。しかしそうした人間としてどうかという振る舞いには関係なく、思考のコアな部分に触れられることを嬉しく思う。

 

 生きた証は子供を作ることでも残せるかもしれない。そう考える人もいるかもしれない。しかし人は死ぬし、子供は面倒だし、原爆が落ちればなくなってしまう。仕事もそうだ。自分がいなくなっても仕事はまわり、回らないような仕事をたとえしていたとしても、その仕事の成果物も原爆が落ちればなくなる。でも論文なら、インターネット上に残るのではないか。

 

 先ほど生きた証を残したいとは思はないなどとは言いつつも、しかも誰も二度と見ることはないのかもしれないのに、私もいつか論文を書きたいと思う。きっと論文を書く人が、その冒頭や末尾に、「誰々に捧ぐ」とか「屋根裏の狭い部屋で」などと書くのは、その年月を生きた証として残したいという気持ちがあるからなのではないか。そういった行動は趣あるものだと思う。

 

 

 

 

 

 

Pocket World in Figures 2017

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