ある挨拶
その金字塔と名乗る女の子が初めてこの家に来た時、わざわざそれを目の前にしてでも言ってみたいことがあった。あなたは居なくなった私の娘じゃないかということ。そうでなければなぜ今頃、こんなふうに私たちのところへやってきたのかということ。思えばあの子に似ているし、星座も同じで、きっと私たちのそばで、なにか伝えることをつぶやいているんでしょって。
小市民の金に関する会話
女:「Hが死んでから保険金を受け取って、お金というようなお金は初めて受け取ったよ。いままで大きなお金なんか、遠目にすら見たことはなかった。」
男:「金といったって、たいした金じゃないでしょう。」
女:「私にとってはたいしたお金で、人生を変える力があるように感じる。」
男:「・・・。」
女:「でも同時に、人生なんて変わらないとも思っている。でも考えてみて、500万円のお金を使って、やりたいことを何でもする。それが一週間で終わったとしても、それがなかった人生と、その一週間の経験のある人生とは違うと思うの。とても、すごく違うと思う。」
男:「君は250万円は彼の母親に分けると言っていたし、そのせいで彼女は期待しているじゃないか。というよりはそれ以外に期待することがないとでもいうように、そいつを既に人生に組み込んでいる。」
女:「・・・。私は彼女に半分のお金を渡すことで、人とのつながりとか、長い付き合いとか、そういう今まで得られなかったものを手にすることが出来ると思っていたの。でもいざお金を見ていると、そんな人間関係なんてきっと手に入らないし、手に入ったとしても、それが何なの。彼女はどうせ私より早く死ぬ。早く死ななかったとしてなんなの。くだらない。どうせ金を渡したら私になんて構いやしない。構ったとしてなんなの、私は、これまで、ずっと一人で行きてきた。」
男:「どうでもいいけど、もうどうでもよい。君は自分のことに関してはだらしない人間。服もちゃんと着ない。しかも今回の葬式には、喪服をもっていないから参列しない。喪服を買う金もなかった。しかし、今まで他人にやると言ったことは必ず約束を守ってやってきた。君はそういう人間。将来金を稼げるようになるのか不明だが、たったそれだけの金のためにつまらないところに足をつっこむものではない。」
女:「並河萬里という人の写真集を子どものときに見ていたの。」
男:「どんな?」
女:「モスクの写真が載っているの。どこのモスクか分からない。とっても綺麗だなと思ってみていたの。私あれを見に行きたいの。500万円あればできるでしょきっと。」
男:「面白そうだね。」
女:「金があったって、一体何をするのよあのばばあが。」
男:「一度言ったことはやってきた人生が崩れる。」
女:「どうでもいい。モスクを見に行きたい。」
男:「(別にそれも強く望んでいるわけではないんだろう。ここはなんて寂れててつまらない場所だ。しかも全く役に立たない話を聞かされて。)」
雨が降ったので、山を登らなかった。これがただの雨ではなく、台風だからである。そもそも私は雨の日に山に登ることは好きじゃない。山に登るのは自分の忍耐を試すためでもあるけれど、それ以上に景色を楽しみ、爽快に享受生活(中国語で生活を味わうというような意味)するためだからである。
雨の日にジャケ買いしたような気がする本。
中村白葉訳の『罪と罰』(ドストエフスキー)を紛失したので買い直そうとしたが、「いまさらドストエフスキーなど読んでどうするのだ...」という気持ちがわき出し、買うのをやめた。しかし今日『憩園』(巴金)のあとがきを読んで、お金がないのにポチってしまった。なんということだ。雨の日恐るべしである。
北京へ行って書店をめぐる中で、小説に対する興味を吹き返した。あんなにも邦訳されていない面白そうな小説があふれている。料理に関する本も、あんなにもあふれている。外国語を勉強することは私の宿命だったのだ。
新・中華街 世界各地で〈華人社会〉は変貌する (講談社選書メチエ)
中国に行ったら大変な不幸に見舞われると思っている母に脅され続けているが、私は楽しみだ。常に不安にかられて、他人の不安も煽動しないではいられない母の居るこの世よりは、どこか違う世へ行ったほうがまだマシ感もある。そのほうが避暑地としてはずいぶん魅力的だ。いのちしかない自分を好きで居てくれる交際相手に悪いのでちゃんと気をつけるけど。そうまで言うなら一生懸命バイトをして一人暮らしをしたらいいのかもしれない。実際そうだ。中国から帰ってきたら一人暮らしするかもしれない。
私は相変わらずいのちばっかりで他のものは何ももたない。自分には何もない。だからといって奴隷にだけはなりたくないのだ。
朝早くの飛行機なので、今晩中に羽田へ行かねばならない。
八月三日から、八月三十一日まで、北京語言大学に留学する。楽しみだ。情報をくださった方、ありがとうございます。
Facebookを見るのがつらくなった。
みなが人生について何らかの仮説を立て、その仮説を立証するために行きているかのように見える。
自分の仮説に反する事象は捨ててしまい、立証に有利な事象だけを拾い集め、まるでそこにはそのように有利な事象しか存在しなかったかのように振る舞っているように見える。
私は不安定な人が好きだ。不安定な人たちは、自分にとって有利でない、自分に矛盾を引き起こす事象が存在することをむき出しに表現している。苦しみ、確かなものを見いだせず、仮説を立てることが出来ないでいる。それが普通の姿だろうと思う。
誰もが自分の仮説を証明する途中で、または証明しきって死ぬのなら、残された証明に何の意味があるだろう。その閉じられた目で探し求めるものは、なんなのだろう。
柳宗元の江雪
まず、男性と一緒だと夜道とか海外とか、一人で居る時より恐怖なく歩ける。なんだかんだ言って女性一人では不安が多く、行動範囲が狭まるようだ。あと、旅行に行ったりして、相手も同じものを見て感じていると思うと、もっと真剣に見たり感じたりしようと気をつけるようになる。加えて、付き合っている人が居ると、自分の将来について、親でも友達でもない人と話をすることが出来る。とりわけ親が少し問題ある人である場合、そういう存在と話を出来るって言うことはとてもいいことだと思う。それにどうでもいいことだけれど、友達がしている恋愛の話に加わることが出来る。加わることの出来る話題が増えるのは嬉しいことだ。
彼氏が出来て悪くなったなと思うところもあるが、たとえばそれは、自己研鑽に務める気持ちが緩んだということ。気をつけねば。