いのちばっかりさ

生きている記録。体を鍛えて学び働きたい。

歩きながら考えたことなど

病院で血液検査をすることになった。飲んでいる。漢方薬にはカリウムを体から少なくしてしまう副作用があるらしく定期的に検査する必要があるそうだ。思いがけず4500円ばかりを支払うようになった。私はこの4500円を急に請求された時わたしに、1人の子供があったらどう思っていただろうと思った。私の現在の生活から行って子供がいる場合4500円の余裕はないだろう。余裕がないというか、4500円は大金だと思っているのだ。その時に4500円を払うのをやめて、血液検査をしないのかそれとも子供に与える食事のいちぶを削減し、4500円を払うのかそのような考えを起こしてしまうと思うと言うよりは、そのようなことを考えないで暮らすことはできない。それは別に私が貧しいとかそういう話ではなくて、これまで生きてきた時代の中の金銭感覚とも言うべきものが、私にその子供と血液検査を天秤にかけるような感覚を、4500円と言うのは大金だと言う考えを起こさせたのだ。私は顔面に照りつける太陽を感じる。この太陽も、光もいつか私に皮膚がんの治療を強いるものになる可能性を感じる。

私には子供がいないが、そのおかげで夫と自分自身の医療費心配をする事は無い。心配しないわけではないが深刻ではない。そして私たちには子供がいないので、シングルインカムで生きていくことができる。2人で静かに話し合う時間を持つこともできる。常に義実家から何か文句を言われているが、子供がいないからこそ、義実家をもし失っても大丈夫であると言う自信がある。私には親がいないのだが、私には子供がいないおかげで父がいないと言うことを2重に苦しむこともない。どうして父は死んだのかと言う問いには私は答えられないだろう。私自身がころすべきだったのである。そういった答えに窮する問いを無限に問いかけられることもなく、静かな日常を過ごすことができる。不在を感じる事はあったとしても、実在する子供の存在を感じること以上に苦しくは無いのである。私はケチである。ケチであるから、人生のステージを登ると言うからには、さらに豊かになるのではなければならないので、子供を作ると経済的に余裕がなくなると言うその大前提こそが私には受け入れられないことである。私はケチであるので豊かになるのでなければ幸せになれるとは思えない。豊かになる事は金だけの問題ではない事は承知している。しかし東京で生きているからには、豊かさは金に依拠している。であれば東京から出て暮らしていけば良いのではないかと考えるが東京から出るとシングルインカムで暮らしていけるような環境があるか。また女が働き男が家にいると言う少しだけ珍しい、その生活形態について他人に興味のある人間に色々と言われるのはごめんである。全てが面倒な香りがする。いかに私が強運の持ち主であるとは言ってもここを離れれば、二度と同じところへ戻ることはできない。どうて私は自由に生きていくことを許されないのであろうか許されないのであれば、地方に行く意味がない。もし人口が今の1000分の1位になり、過疎地は本当に誰もいないと言うような風になれば、私は喜んで地方に行くだろう。よくアルバイトでオープニングスタッフにしか参加しない人がいるそうだそういった感情に似ていると思う。出来上がった人間関係や固定されたお局などの中で暮らしていくのは大変である。人間たちのこれまでの状態を失いたくないと言う欲望と戦うよりは、大地や自然と戦った方がマシであろう。

 

私は生落花生を買い、イチジクを買うの我慢した。もし子供がいたなら、イチジクのみならず生落花生も断念したであろう。正直私は昔から書くことと食べること以外にはあまり興味がないのである。もしもう一つ興味があることがあるとすればそれは移動することである。おそらく私の欲望は著しくさまたげられることになるであろう。

 

子供を育てるためには、自分で子供を産まなくても、養育里親などの制度を使って子供を育てられるわけなのだが果たしてその里親になれるかと言うフィルターをいかにも曖昧で、いかにも自分勝手の人物たちが支配しているように感じられる感じられるだけなので、実際に取り組んでみればしっかりなれるかもしれないのであるが、親になるための講習などを何度も受けさせられるらしく、私はそういったことではないことを望んでいるという感じがしてならない。毎日暑くてならない。だるくても治らない。これは私が恐らく体のどこかを壊しているからなのだが、もし出産なると言うことに取り組めば。何が壊れるかわかったものではない。この夏は暑かった。あと何度夏を越えられることか、わからない。

歳をとって、もし突然に金をどんどん失っても子供を育てる事は良いことであると言う思想が自分に芽生えたらどうしよう。自分がもし出産で死んでも子供が出てくる事は良いことであると言う思想が生まれてたらどうしよう。もしも取り組めないと言う年齢になってから夫に子供が欲しかったんだよ。本当はと言われたらどうしよう。子供はあれば消せないしなければ生み出すことはできない。これは一般的な受験や勉強の考え方とは違うのだ。受験であれば高い場所を狙っておけば、低い場所に行くことができる。勉強ならば、やっておけばやらなかった人と同じ人生も送ることができる就職面接であればたくさん申し込んでおけば落ちても受かったところの中から選べば良い。しかし子供はもし取り組んでできたら消すことはできないのだし、大昔は別にして何か障害のある状態で生まれてきたとしたら、自分はとても育てられないと思ったとしても、消すことはできない。こういったことを差別だと思うのだが、差別と言うのは一定の場合には、差別する側の人間が生きるために、仕方なく身に付けた反応であることもあると思う。

4500円が自分のために払う場合だけでなく、子供のために払う場合もあるだろう。4500円を大金で出すと大変なことになってしまうと言う感覚は、私の人生がそうさせたのである。払える替えのキャパシティと言うものが、人それぞれにあると思うそして子供を育てるのにかかるお金をそこまで下げてやることができなければ、やはり心理的障壁を感じずに子供を作ることはできないのである。ただでさえ子供を作れば、自分の体が損壊されるかもしれず、仕事にも今より苦労しないと取り組めないかもしれないのである。コロナウィルスや高熱にかかるだけで、しばらく後遺症ができるような脆い人間であるのにそのようなチャレンジはちょっと難しすぎる。

 

自分はあっという間に子供を作る人たちに対してただ恐れ慄いている。35年ローンを組むことにも恐れている。自分は戻れないことが怖いんですかね。それならそうと言えばいいと思うがそうではない。自分は戻れないことが怖くて、もう戻れない波の中に飲まれていて悲しんでいるから、この勢いを出産によって加速させたくないのである。毎日が飛ぶようにすぎて行くようにはしたくない。言葉を一つ一つ交わして大切に生きていきたいのだ。

 

やはり音声書き起こしで書くと文章は面白くない。変に追い詰められたような文章になってしまう。生落花生は40分茹でたら茹ですぎで、多分30分でよかったのだ。でもおいしかった。

 

自分がいかに食べることが好きかということは最近撮った写真がいかにも嬉しそうなのでよくわかる。

f:id:giveus:20240913003150j:image

f:id:giveus:20240913003200j:image

f:id:giveus:20240913003237j:image