いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

サイゼリヤ

俺たちはこれまで住んだ場所では常にサイゼリヤに行ったことがある状態だった。つまり住んだ場所にはサイゼリヤがいつもあり、あれば必ず行って食事をしていた。

 

今日はこの土地に引っ越してきて初めてサイゼリヤに行った。何故かパスタが柔らかかった。地域性あるのかもしれない。ベーコンとか入ってたパスタからベーコンがなくなった気がする。ご時世であろうか?でも長らく一緒にいてまた新しい土地でもサイゼリヤに来れたのは嬉しい。

旦那と一緒に行って楽しいのだが、なにか落ち着かず、プリクラが見えてたのでプリクラの事を思い出した。いきなり父とプリクラを撮ったこと、母と弟とプリクラを撮ったこと、父がその時に来ていたセーターや、引き寄せられてプリクラを撮ったときのセーターのチクチクとした感じがわかった。あのプリクラそのものももうどこにもないのに。すべてなくしてしまったのに。いやそんなプリクラあったのだろうか。なかったのではないか?

 

もう死んじまったからプリクラの事を確認できないよと思ったけど、生きていても目の前のことしかお互いに考えない性格だからお互いに忘れちゃって話にならなかったと思う。

 

主夫になることは幸せなのかなとずっと心配に思っている。だけど幸せになることは特に重要じゃないのかもしれないと思っている。わたしは世の中がどんなにクソ仕様で無理難題であろうと旦那がいれば万事OKである。