いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

いきなり死になった

一つ前の詩を書いて投稿したあと、すぐに電話がきてでかけた。出かけて、見舞ったらいきなりそのひとは死んでしまった。ええーそんなことある?という気持ちだったが仕方ない。元々危篤ですと言われて呼び出されたけど、実際ついてみたら、たしかに具合悪そうだが、弱った老人なんてこんなものだろうか、という感じで、「これが危篤?」「呼吸が少ないようだけど死ぬほどではないな」という気持ちだった。実のところ、ついたときに話しかけたときより、帰るときに触ったときは腕が冷たかったけど、そのことを周囲の人に言うのもなんか良くない気がしたし、気の所為だと思った。私が最初触ったときはかなり思ったより温かいなと思ったのに、あとから旦那が触って、「手もけっこうつめたいな」と言ってたので、「え?」と思って触ったらなんか最初より冷たかった気がした。

そのあと、「この様子だと結構弱っていますね」という認識を共有して帰ろうとしてコーヒーを飲んでいたら、「本当にまずい状態」ということで再度呼び出された。「本当にまずい状態」というのは、呼吸が少ないし血圧が下がりまくっているということらしい。

すぐに戻ってみたその時は、もう本当に息を全然していないような感じで、これは全全息をする回数が足りないのではないか?と思って、これでちゃんと生きているのだろうか?と生きているのと死んでいるのとの境目がかなり曖昧だと思った。病棟に入るときに心電図モニターを見たら、最初に訪ねたときの半分の回数になっていたので、うわ、ほんとうに、と思った。

 

呼吸を全然していないのに、心拍が少し回復しましたなどのコメントを受け、一体これは、と思ってよく見ると、わずかに息をしているようだ。ほぼ呼吸していないのに、心拍が30とか言われると、呼吸と心拍は連動してるのか違うのか、どういう順番で止まるのだ?と考えているうちにご臨終確認になった。

 

死ぬのならばもう死ぬ死ぬともっと言ってくれまいか、と思ったが、まさか誰かの大切な家族を看護婦さんが死ぬ死ぬとも言えないわけだし、危篤という言葉を行った時点でもう言ったことになるんだろう。でも危篤という言葉と、実際に見た感じが全然違っていて、これならまだ死なないのであろうと思ってしまった。

 

よく考えたら私が一度目に訪ねたときなんか途中から呼吸が不自然だったので、そのことを言うべきだったのかなと思ったけれど、言ったところで、何も打つ手がなかっただろう。眠くなってきたのかなとか話しかけすぎたから疲れたかなくらいに思って重大視しなかった。もしそれを伝えてたらとどまって一緒にいたい人もいたかもしれないけど、コロナ対策で長時間の滞在が禁じられているから、それも難しいだろうと思う。

でもなんで言わなかったんだろう?と思ったときに、自分は危篤の状態の人を見るのは初めてだったから、これがまずい兆候だとわからなかったんだということに思い至った。思えば死に目に会うのは初めてで、いつも死んでいる人ばかりだった。

 

普通に過ごしていたら50代とかで親が死ぬときに初めてこれを経験する人もいるわけで、そう考えると私はまだ20代でこの経験をしたのは重大なことで、これでこれ以降同じようなことがあったら、これはもう危ないというのがわかると思った。

 

部屋の外に出てトイレに行こうと思ったけど、コロナ対策中だから外から来た私があまりトイレを使うのも良くないだろうと思い、ぼんやり立っていると、向かいの方の通路を白い布に包まれた人が運ばれていった。すごいスピードで人が死んでるみたいだ。

 

確認は脈と瞳孔をしらべて、死んだと決まると部屋を外ようにいわれ、すぐに拭かれ包まれ、霊安室へ一緒に移動ということになり、そこに詰めている葬儀屋さん(何故か白衣)がここでは線香たけない旨を説明し、冷蔵室の温度などを説明しながら、かなりアグレッシブに自分の葬儀会社で葬儀をするように勧めていた。自分は葬儀を一度そういう案内に従って行ったことがあるけど200万くらいかかって死にそうだった。なのでやめたほうが良いし、取り仕切る親族もそう思ってるようでてきとうにきいていた。けどこっちは遺体を安置してもらう作業をてきとうにやられては困るから、むげにもできずきいていた。死にましたの30分以内にこの営業を受けなければいけないのはかなり辛い。

 

まだ声が聞こえてるというような時間にさっさと冷蔵庫に入れるのはなんかキモいなと思った。人が死ぬというと遺体を持って帰るのではないかと言うような印象があったが、これまで経験した中では一度もそういうのはなくて、冷蔵庫に入れられる。

 

よく考えたらそもそも遺体を持ち帰るということ自体が、現代社会の衛生観念やご近所感覚からもありえないようなことかもしれない。また遺体をマンションの中に運び込んでくれる人手を手配することもできない。

 

自分とさては葬式で一度も棺を担ぐ人の姿も見たことはないし、ストレッチャーで便利に運ばれ、すごい火力で焼かれたりするような場面しか知らない。

 

火葬場にも次から次へと人が運ばれるし、タクシーは横付けされる。

この粗末さを見ると、東京はやはり人が集まり過ぎだし、十分なお別れもできず、まるで機械のように自分たちを目的もなく律して明日の仕事に備えているような気がする。

 

葬儀屋の人が、もしお望みの葬儀屋が高すぎる場合うちに連絡してください…とか営業しているのを聞いて、「そんなことはない、金ならいくらつんでも有り金叩いても尊厳を取り戻してやる。肉じゃねえぞ。」という気持ちになったが、あまりにひどい考えなので、東京を離れたいと思う。もちろん口には出していない。