いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

何回かの命日

それが死んでから何回かの命日が巡った。空き缶が音を立てるときそれは死の装飾だった。髪の毛がうまくまとまらないでいる。歩いても歩いても、まだ静かな悲しみしか目の前にはない。それは海中の電車の中で人と出会うように何度も何度もその本を読みたくて、でもその本は永遠に失われて探すこともできない。毎日がその続きのような日々にある茶色の別荘が売りに出されているのを見つけた。

ほしいと思った。自分にローンを組める値段ではない。かくしてスルーした。実際人生というのはこういうことの繰り返しで静かに画一的な労働に捧げられるになっており、俗に言う「エモい」購買なんてものは、更に資本主義の犬になるか、金持ちじゃないとかなわないんである。