いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

晴れてて気持ちの良い日

晴れているが起きたのが遅かったせいもあってか、遠くの空は雲で覆われていて、真っ白な富士山は見えない。そのことは私に「すん」という気持ちを催させた。とかあほなことを言っていないで、今日のことを書く。写真は旦那がきれいに切ってくれたニンジンを炒めて明日の弁当の具を作っているところ。私ならまずこんなにきれいには切れない。というか途中で飽きる。


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ところで、考えてみると、すべてのことは分解すると動作に過ぎない。動作をするかしないか、それだけのチョイスだ。例えば結婚するということについて、婚姻届けをインターネットでダウンロードする/しない。ダウンロードしたPDFをUSBに保存する/しない。USBを持ってコンビニに行って印刷する/しない。書き損じがあっても大丈夫なように3枚ほど印刷する/しない。ペンを握って名前住所などを書く/書かない。保証人を探して頼む/頼まない。返送されてきた記入済婚姻届けを役所に出す/出さない。などなど非常に多くの動作からなる行為。これが結婚だ。結婚であっても、歯を磨くのと同じように、動作の集まりだ。動作の結果だ。

 

結局人生における選択とは、これを選択する/しない。によるバリエーションなのだと思う。基本的に私は2択というものには、選ぶ人は賭けのような気持ちを持ってしまうと思っている。そう思うと、これをしなければいけないというような思い込みはへんてこだと思ってしまうし、そんな思い切りのいいかけのようなことをしてしまう構造にある人生の一回一回の他人の選択に対して、いちいち「なぜ」と聞くのは偏執のようなものだと思う。たとえその人に、「これをするか、もしくはあれをするか」という選択肢が選べる程度にある状況でも、結局「これをする/しない。あれをする/しない。」という選択をすることには変わりなく、つまり私たちは常に2択の世界を生きている。2択なんだから、思い付きで「する」を選ぶこともあるだろうし、「しない」を選ぶこともあるだろうし。

 

そのとき、そういう風に水が流れているから選んだと思うことでも、後から考えてみればその水自体なかったなんてこともよくあることだと思う。一回一回の決断は全然分離していて、関係がないんじゃないか。まるで以前にこれを選んだから次もそんなものが来たら「する」を選ばなければいけないみたいに思っている人もいるかもしれないけど、そうじゃない。今日まで何年もブログを書いているから今日も書かなければいけないんじゃない。今日もブログを書くか書かないかの選択について「する」を選んだのだ。

 

「する」を選び続けたからと言って、私の人生がそれで決まっていくのかと言えばそれも違う。私の人生の選択は明日には違う方向に変換可能だ。

 

私の選択によって構成された周囲の状況と、私の人生はまるで無関係だ。だけど私の選択によってこの状況にたどり着いたことを愛し始めるとすれば、そこからやはり逆に自分自身を追い詰めることにもつながる。この状況を守り続けるためには、手っ取り早くは明日も仕事にいかなければならない、というように。けど私は本心ではそういう風に思っていない。明日仕事に行くのはとりあえず「する」をその日に選んでいると思っている。明日消えるかもしれない連鎖のうちのいち「する」を選んだだけだ。そう思うと毎日が大切に思える。二度とないバリエーションを楽しんでいるような感じがする。

 

私にとって旦那は環境ではないし状況ではない。「する」を選んだからそばにいるのではない。いややっぱり「する」を選んだからそばにいるんだろうと思わなければいけないのだろうが、選択可能な次元を超えて、私たちはそばにいたのだ。そういうわけでどのような選択をしても私たちはそばにいるだろう。このような表現は少々自分に甘すぎるのではないかと思うには思う。確かに。これは将来考えてみれば、やはりそういう水が流れていると思っていたけれど水自体なかった事象に当たるのかもしれない。けど記念に書いておくけれど、何を「する」を選んでも、私たちは一緒にいると思っている。そのためにもし神がいるなら、その神が私のために、旦那を私と会わせたのだし、旦那はそのために私の家に住んでもいいように身軽なのだし、土着していない人間になったのだ。なんちゃって。

 

実はそんなことはどうでもいいのだけどいまいち自分と環境がしっくりくるということがないんだよねというのが本当の悩みですな。

多分しっくりくるようなところまで来ていないのだと思う。しっくりこない自分という立ち位置にしっくり来てしまうのさえまだ早い気がする。

 

今週のお題「ホワイトデー」