いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

将来の仕事に関すること

仕事としては、いろんな人の「快適」を支える仕事をしたい。

会社に行って働くと、人生において人間が発揮できる力を会社という機関を通じて発揮することになる。

今のところそれは社会にとっては有意義であっても、個人にとって有意義だと感じることはない。変わらない事が好きな人はいいけど、自分は変わらないことをするのは辛い。仕事は変わらなくても私生活が充実しているというには、仕事をしている時間はあまりにも長い。


世の中の効率化、エクセルや関数やVBAやRPAを使いこなし、効率化をすすめても、最終成果物が人を苦しめるようなものなら、その努力そのものが虚しい。原価率の低い食事を客に食べさせることや、健康に悪いものを客に食べさせることや、質の悪いすぐに壊れる製品を客に提供することが最終成果なら、私たちは働くことを通して食い合っており、けなし合っており、消耗しあっている。 

自分が最終成果物を悪いものと断言できなくても、またそれが悪いものなのか判断する立場になくても、自分のやっている仕事が人に対して良いものを生み出していると思えなければ、自分の仕事なんかつまらん。虚しい。そして自分の仕事の上流にいる人がほんとに人のためを思っているか、仕事の下流にいる人が仕事の良いところを本当に最終消費者に届くまで守り抜いてるのか、確信できなければつまらない。精神的奴隷だ。


そもそも客が満足するような食事を提供するには、人件費を必要とする社員の人数が多すぎるとか、一緒に働く人を信用できないとか、そういう場合には仕事が奴隷労働のように感じられる。

金持ちにならなくてもいい。人の心を金持ちにしたい。