いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

家族を持つことと仕事

家族を持って仕事に精を出すとかいうことは、よく言われることだけど、精を出せば精を出すほど忙しくなり、失敗の影響も大きい仕事をやらされるのなら、嫌だなと思う気持ちもある。帰りもどんどん遅くなって家族との時間がへるし。作業レベルでしか仕事を知らなくて意味を知らないうちから精を出してトンチンカンなことをやって迷惑をかけても困る。

やる気がないと思われるかもだけど、やる気はある。なぜならもう食っていかなければならないからだ。

どんな場面でもやる気がないと思われない人は好きな仕事をしてる人だ。そういう面において、やはり自分の好きなこと、人生の目的にかなったことを仕事にするべきだと思う。とはいえ全ての仕事には自分の人生の目的にかなう部分がいくつかはあって、例えば飲食店で働いているなら、別に飲食店で働きたくはない場合でも、この仕事をうまくやれば、「人を幸せにする」という自分がしたいことにはつながるかもしれない、とか、そういう話だと思う。

全てが叶うことというのはなくて、うまくいく部分があるかと思えば妨害されたりもする。

 

あまりにもすぐに妨害されるから、もうどうだっていいじゃないかというか、無心にやればいいじゃないかというような気持ちになる。そういう気持ちにさせる経営者は無能とか、そういうことを誰も言える物ではない。

 

言える物ではないというか、それはなんか経営者と会社の社風がマッチしてないということだと思う。

経営者は自分の履歴書を書きたいのだろうが、会社は会社として求人のポリシーを自分が良いと思う感性で書いて人を採用してるし、入ってくる人も自分の理想を持っている。それは豊かになりたいとか金を稼ぎたいとかいうこととは別に、自分の仕事にやりがいを感じたいというような気持ちでもある。そもそも純粋に金を稼ぎたいとだけ思ってやるには、仕事は割に合わない。

 

家族を持つと意識してから、自分の心に叶う仕事をしたいという気持ちが強い。心に叶う仕事をしているという姿で家族の近くにいたいという気持ちが強い。自分の親はそうではなかった。

 

わたしはそのうちまたメーカーに勤めると思う。今サービス業の業界で働いているのだが、最終プロダクトがサービスというのでは、あまりにも私たちは経営者の意のままに手放すことを余儀なくされる。私たちには最終プロダクトとして店に並ぶ製品、最終消費者が手にする製品があるというのであれば、いくら経営のためとは言っても、あからさまにコストのために質を落とすわけにはいかないし、働いている側としても、自分たちの最終成果はこの製品であるという自覚がある。

サービスだと、コストカットのため、と色々を削り落としていくと、いつのまにかサービスの価値を取り崩しているというような可能性があると感じる。

 

いつのまにか私たち労働者から、世界に最大限の幸福を与えるという機会を奪うしむかつく。

 

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