いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

人に頼って生きていくことが嫌い

私は子供の頃人に頼らないと生きていけないことで大変な辛酸を舐めた。やっと自分でお金を稼げるようになった今、絶対に人に頼らねば生きていけない境遇にはなるまいと思っている。人と触れ合うことと人に頼ることは違う。

人に頼るより頼られるくらいの人間でありたい。

そんなこと言っても調子が悪くて人に頼らないといけない時もあるというかもしれないが、そんな時は自死するか、財 貯金を全て失っても公的サービスに頼るかするであろう。

 

そのような気持ちから私はいつも勉強しているのだ。ということを最近理解した。

 

小説を書くには1人の部屋が必要だと言った人がいるそうだが、生きていくにも1人の部屋(というより自分の金で権利を維持している家)が必要だ。

 

養いきれぬものは自分から切り離すか元から持たないことしかできないのであって、養いきれないもの共々誰かの世話になるなどということはあってはならないではないか。

 

現代人はそんな気持ちで子供を持たないのじゃないか。なぜだか知らない。

 

弱いからと言って強いものに雪崩かかることないじゃないか。弱いなら弱いなりに生きればいいし、強くなれるのなら強くなればいい。頼ることはこれまで弱くとも生きてきたことを灰塵と化すことに他ならない。

 

そのようにして私の母は離婚した時何も持たないし仕事もないから親を頼ったし、自分の子供にも何も持たせず金も稼がせず、家を出るだけの資力を持たないようにわざとしむけ、自分のようにさせずにはおかなかった。誰がお前になど頼るか。

 

私は弱いものなんかつくらないし、自分が弱くならないことで、自分の子供にもまた弱くあらしめない。

 

そうすることで最後に何が残るかといえば何も残らない。大抵の場合弱いものは弱いまま、ただ頼らないだけの人生が続く。死ぬ時良い家にも住めない。どうでもいいんだそんなことは。