いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

受け身な人間としてのわたし

わたしはゆっくりと時間を過ごしたことがない。それはわたしが受け身な人間だからだ。わたしは父が死んだ時、棺桶ごと人間を冷やしておく場所で、父を見ていられたのは多分ほんの3分位である。

 

わたしの視線は極度に吸い寄せられた。そして色々な人が部屋に入ってきた。今わたしはあの時の人間冷蔵庫よりさらに寒い食品冷凍庫で仕事しているのだが、冷やされているものを見ている時、不思議と父を見ているような無心な気持ちになる。寒すぎるからなのだが。

 

わたしはこの部屋にしばらく1人にしてほしいということさえ思いつかなかったし望むということを知らなかった。受け身な人間だったのだ。いまわたしが執着するものは旦那だけで、他のものに関しては人間冷蔵庫の時のように受け身でいるだろう。

 

他のものはぷちりと引きちぎられるようにして視界から消えていくのだ。