いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

4日

今日は4日。ラジオをつけたら雪国の朗読をやっていた。昨日が4日だと思っていたけれど、本当は今日が4日だった。嬉しいというよりも、これほど長い休みの後で、出勤しなければいけないのが不思議である。鎌倉に安いアパートの残骸みたいなものを買って、リフォームしながら暮らしたいが。まあそんな場所なんかないよ。

 

雪国って今考えてみると、男でこうやって遊んだらエモくて、しかもモテて嬉しくて、なんかいろんな美味しいものを集めたみたいな感じで選ぶにもよりどりみどりでいいだろうなあというような小説なのかなあと思うよ。この小説はどこにも自然の景色、深い緑、それから色濃く漂う人の死が漂っている。

 

違う方向から見れば、葉子は死んでしまったんだが、この人は葉子のことを小説が終わった後も読者に考えて欲しかったのかなあと思う。この小説の中で、葉子だけは感情がだぶついていない。そして周囲の人たちは、十分に行き渡ってだぶついてもいないこの人の感情を半ば子供っぽい、ありうべきでないようなものとして、面白がっていて、面白がっていないにしても自分たちにはないものだと物語的に消費している。葉子は死んだことによって、もう人生を物語的に消費されない。好きな人と添い遂げられない場合は、人から見られ、消費される世界で生きる以上、自分の人生をも断ち切らせることによってしか、自分にとって明るい世界を生きることができないと言われているような気がした。(別に葉子は自殺したわけじゃないですよ)

 

小説家というのは人の感情を外側から観察して書き続けるから、葉子のような人のことは背景のようにして、駅弁の裏側についているシールのようにしか触れることができないのではないか。そしてそのようにしか触れられない人物のことを最も好きで、そのような人物を書いている時の自分が最も好きなのではないか。

 

 

雪国 (岩波文庫 緑81-3)

雪国 (岩波文庫 緑81-3)

 

 

 

川端康成随筆集 (岩波文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

 

 

四国とか関西で働きたいわ。