いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

旦那が具合悪いので一人で出かけようとするものの

旦那が具合悪いので一人で出かけようとするも、温泉の場所を調べて、電車賃を調べて、温泉に入った後に行く良さそうな喫茶店を調べて、食べログを閉じると、もう行かなくていいかとなって結局行かない。何かを目指していくにはとことん向いていない。種田山頭火という人は托鉢乞食の生活をしていたそうなのだが、この人は歌人ですが、私も移動するとすればこんな風にしか可能たり得ないのではないのか。

 

こんな風に気力もなく過ごしていると、躁鬱みたいになってきて、ていうかいつもそんな風になっているけれど、気分の上下が際立ってきて、でも躁の時も鬱の時も考えていることは世界の定型文コピーアンドペーストみたいな内容ばかりで、私も労働者になったのだ。つまらない人間になったのだと思った。

 

一人なら托鉢乞食をしていたろうと思う。最近人前でスピーチしなければいけない時など、前もって話を作ろうとするのだが、何かワードを最初に書き付けると、だんだんそれがシミのように広がって鬱な深みにはまっていってしまい、そんな話誰も聞きたくないだろうと思う。でもよく考えたら、そんなのは昔からだった。小学生の頃に書いた作文はそういう、世界に対して、鬱みを押し付けてやろうというような意識なくかけていた。

 

今日窓を開けて網戸越しにプランターを眺めていたら芽が昨日より増えていて、空気は香料で香り付けしたように甘かった。雨が降っていて十分に湿っていたが、パスタを茹でた水をぬるくなっても置きはなしにしてたのでプランターへやった。明日晴れれば乾くから問題ないだろう。急に温かな水をかけられてどんな風だろうとちょっと感じてみようとしたが思いの外気持ち悪かった。ぬるま湯に浸かりながら肩口に冷たい水が降り注ぐような感じだからあんまり良くない。眠すぎなのか、床に倒れたら明日の朝まで起きなさそうに眠い。人の布団に侵入してしまう。自分が感じられない。もう眠らなくていいのに寝ようとするから「自分が感じられない」などと余計なことを眠っているうちに考えるのだ。起きればいいのだ。