いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

こっから生活

私は掃除をあまりしないのだが、これでも旦那と付き合ってからちゃんと掃除している方だ。けど排水溝はドロってるし、キッチンで使用したタオルを普通の服と一緒に洗濯するのでたまに全てが魚臭くなったりする。そのようなことが旦那を弱らせている。いちいち説明するまでもなく私は頭でっかちな人間である。身体的な自由がない。ちっとも生活リズムも行動も自分の思った通りには行かないでこの歳まで生きてきた。

 

ああ、部長が、「慎重さが足りない」と「期待しているよ」「もう少しなんだよなあ」のコンビネーションで絶妙に飴と鞭を繰り広げている。が、どうしたものかなあ。自分の価値をどう見るべきなんだろうかと思って悩んでいる。転職したいが、できるのだろうか。東京に行けば賃金はいいが、東京のゴミゴミの中でまた暮らしていくと思うと自信がない。感覚過敏だから電車に乗るだけで疲れてしまう。

 

不器用すぎるので金にモノを言わせることでしか知識や技能を習得できない。人に媚びるとか、継続的に師事するとかは無理だ。ボロが出るし、その馬鹿らしさに逃げ出してしまう。だから私は金を大事にするのだ。世間から見れば大したことのない金でも、私の人生をその都度リカバリするには十分だったりする。そんなもんだ。

 

うまくいっていると思ったら、ふとしたことで全部が崩れる。悲しい哉。そんなもんだな。ふとしたことで、というか、最初から崩れている場合もある。

 

仕事に行くのにふさわしい服を買いたいのだが、どんなのがふさわしいのかわからない。なんかあんな感じのものというのはわかるのだが、いざそういうものを自分で着るとなると、自分で着るべきものはどれなのかまるでわからない。世界との断絶的なものを感じる。仕事の服なら、同じものを三着くらい買って、毎日それを着れるというようなものがいい。考えたくないのだ。同じだけれど、同じに見えないようなものがいい。

 

プライベートでも使えるとなお良い。なんか可愛いワンピースで着ても洗ってもシワにならなくて頑丈で汚れないやつが欲しいなあ。そんなのないんだけど。

 

なんだかんだ言って、嫌いな人のためではなくて、好きな人との生活のために働けるのは嬉しいと思う。 他に色々な事情は介在してくるにせよ、二人の間の幸せや問題に第三者は関係なくて、私が一人の人として、何を相手に対して果たしていき、何を共にし、何を伝えるかということがマターである。周囲のことにいちいち反応している暇もなく二人の仲を嗜みたい。