いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

飄々とした嘘

飄々とした嘘という名前の小説があればいいと思う。なんとなく寒々しいし、滑稽でもある。

 

私はよく飄々としていると言われるのだが、それは父が死んでから主に生まれた特性である。そんなこと大したことではない。父は死んだのだ。と思っている。

どんな失敗にしろ、どんな風に自分に向けられた敵意にしろ、死ぬような失敗ではなく、殺されるような敵意ではない。

みんな自分の生活をある程度愛し得ているから、それを失ってまで人を殺したりはしない。ただ私の疑問は、なぜみんな自分の生活を愛し得るのかということです。人は最後には死ぬのに、その途上でお金を使ったり、何かを作ったり、働いたり、自分の好きなもの嫌いなものを考えたり、可愛い食器を買ったり、人に認められたいと思ったり、そういう生活をなぜ愛し得るのだろうということ。

それから人を殺しても刑務所に入れられたり裁判にかけられたりして自分の生活を失うことがないと保証されていたら、人を簡単に殺したりするのかということ。

またある種の人にとっては刑務所に入ったり死刑にされたりすることがこの世で存在し得る最もありがたいことであると感ぜられているということも事実で、そういう人が人を殺して証言しているような例もある。

家は確かにあったほうがいいし、人に嫌な奴だと思われるよりは認められたほうがすごしやすいだろうと思う。刑務所の冷たいところに座るよりは、好きな時に街中に出て好きな椅子を買って座るほうがいいとは思う。快適だという意味で。快適なほうがものを考えやすいという意味で。でもそんなことに絶大な意味があるとも思えない。

私に一番重要なのは、私なしでは人生がつまらなかったと言ってくれるたった一人の人のそばにいたいと思うこと。本当にはそれしか、この世界に執着する意味はない。それ以前の自分は本当に生きていることになんの意味も見出さなかったし、なんならそろそろ死ぬかくらいの勢いだったし、何か見つけたくて本を読んでいた。なぜ他の人が何食わぬ顔で生きていけるのか心配だった。まともな風に生きていける人は皆、何かの生きがいのようなものを持っているのだろうか。

生きがいのようなものを持っていても、ふとした瞬間に違うものが絡まり、心に触れ合わないものになるのではないか。

だから私は自分の家族に旦那を触れあわせたくないし、家族には私の生活に絡みつかないでほしい。みんな何かしらこんな風に執着するものをこの世に持っているのだろうか。

 

たまに温泉に行って、ぬるい湯に浸かり、何かを考えるのはいいな。でも慣れてないからうまく考えられなかった。また行こうと思う。もくもく会@お風呂

 

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わが秘密 (岩波文庫)

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