いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

途中とは撫でている状況(音声入力)

ロードバイクを買いたいと思う。月給安いので買わないけれど。ガソリンを入れる必要もなくどんな景色でも自分でこいで見に行ける。私は今独身なので月給安いから買わないけれどと言うのは半分嘘である。本当の意味は「月給安いからおいしいもの食べるかロードバイクを買うかどちらかを選ばなければならないけどおいしいものをいつでも食べたいのでロードバイクあきらめる」である。

 

正直僕と言う人間はどうなのだろうか女にもなりきれず男にもなり切れないというか今この言葉を口にしたときひどく驚いた子供の頃よくこういう言葉を頭の中で考えていた。子供の頃と言えば壁に人の名前を書きつけていた。そのせいで壁紙がボールペンいやフェルトペンだったかもしれないのインクで汚れて親にすごく怒られた気がするでも怒られたことも忘れているでも彼らなら怒らなければおかしいのできっとことだろうと思う。壁に書きつけた名前は最初アニメの主人公とかサブキャラとかから始まってそこから自分の世界で生み出した人の名前を書きつけた。自分の世界の中でそういった人物が生きていてある時に現れて私に面白い言葉をかけてくれる。じつは今でもその時に想像した人たちの何人かこの世界のどこかで生活していて何かの料理を作ったり東京タワーに登ったり浅草で粟ぜんざいを食べていたりするのではないだろうか。河の上を走ったり自分に変な苗字つけたりとかして静かに一人ひとりの人生を悩んでいるのではないだろうか。私がいなくなったあの道あの神社へ続く酒などを上り今私には聞こえない川のせせらぎを聞いているのではないだろうか。私が埋めた金魚の墓にたまにはお参りしてくれているのではないだろうか。もしそういった存在があるならば私は救われるような気がする。私のために生きているいや彼らのために生きていても、かつて私が見た誰かが買って私に本音を語っていた誰かがこの世界のどこかにいると言う事は尊い

 

私はオクラをたくさん食べた。蔕取らないで茹でてみたのだがやっぱり蔕を食べるには硬い皿の上に4つ蔕が並んだ。無理をすることと挑戦する事は違う人に気に入られようとすることと人のためにする事は違う最近そんなことを考えているみんな結局自分がうまくいくように願っているでも私はどこかで自分がうまくいくことを願っていない。自分を何かに押し付けてその痛みを味わうことで自分の存在がよくわかる気がする。

 

私は良い調味料を買った。実は憧れているのだ。いくつもの瓶を傾けながら素晴らしい配合の調味料で料理を作っていくそういう人に。私はなぜか何一つ完璧には作れない半分ぐらい作ったら飽きてしまって人に投げる、こういう人はどんな仕事に向いているだろうか。私は完遂を見ることがとても好きじゃない完遂より前の段階のほうがずっと楽しい。何か完成したものを見て嬉しいと思ったことがない。なぜ出来上がってしまうのかと思うほどである。出来上がったときそれは何か恥ずかしい物体になっている。例えば登山をしているとき私は全然ピークなんか来なくていいと思っている。むしろピークに登らないがためにどこかの道ずれてしまいたくもなる。じつは遭難者の中にはそういう人が違結構いるのではないかと思う位である。私は今何かパンフレットみたいなものを作らされているのだがそれが大変に苦痛である。4割ぐらいできたところでも誰にでもできる仕事になったと思ういや誰にもできるとかそういう話ではない。ただ単に興味がなくなるどうやってやるかわかったらもうどうでもいいような気もする。しかもちょっと実践してみたならばもう捨ててしまえと言う感じになる。味などなくなってしまったと言う。結果その仕事投げられた人はほんとに何なのよと思うであろうなぁ。私はそういう人間なので何一つ大成しないのかもしれない大器晩成どころか器のうの字もないしそもそも器ではないのかもしれない。裏腹に私は器がとても好きである。もし皿など買い始めたら何百枚何千枚と買うであろう。何を入れるんでもないけど私は器と言うものはすごいものだと思う。何か引きつけてくるものがある。ここに何が入るんだろうと想像させるような力がある。落としたら割れてしまうようなところもいい。とか言っているがいざとなったら全部どうでもよくなって捨てていくであろう。私にとってこの周囲とは器のようなものような気もする。その縁を撫でてうっとりと見ている時が1番良い。