いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

同期百日

 思えば同期とは3ヶ月ほどの時を一緒に過ごしてきたわけである。まま考えてみれば同期は私が生まれてこのかた、生活に関するリアルな悩みをちゃんと話し合った数少ない同年代の人たちである。

 

 そんなことを考えるとき、なんとなく今までそういう関係になった同年代の人のことを思い出すと、その時自分が人生について悩んでいたり、人生の方針について意見を戦わせていたことが、結構トンチンカンというか、精神至上主義というか、はたまた時には金銭至上主義的だったりとかして、重要なもんが欠けていたなあと思う。けどその重要なものというのは、私にとっては実地で経験しなければ理解できないもので、もしかしたら他の人には言葉で説明されて理解できるのかもしれないのだが、私には信じられない、ということばかりなので、こんな場所まで来てしまったのはもはや致し方ないというしかない。

 

 全てに関して私の理解は遅々として進んでいくように思う。それについてはここでは書かないけれどそう思う。

 

 もうすぐ研修が終わるので、同期の大半とはお別れである。さようなら。研修を通して、私たちは自他共に認めることだが、急激に輝きを失ってしまった。明らかに人間的素晴らしさがかき消された。明らかに未来に対して抱いている希望をくじかれた。明らかに全員が転職サイトに登録した。昼を食べながら我々はもはや隠すこともなく、一年はとりあえず続けなければならないと話し合っているもんね。別に続けなくたっていいじゃないか。私たちは第二新卒として転職活動できるのだから。まあそれは考えどころだけれども。

 

 でも最初に入った会社がこれだと、ちゃんとした会社がなんなのかよくわからないね。多かれ少なかれ、組織というものはスネに傷を抱えているんじゃないのか。まあここはどこをとっても傷だらけだから普通じゃないことは明らかなんだけど。

 

 毎日同期とばかり話しているとクサクサするんだよ本当に。会社の悪口しかいうことがないもの。そうでなければ子供の頃はこんなふうになっていくと予想していたみたいな話ばかり。でも不可能になったと言いたいわけだな。でもまだわからないじゃないか。みんな諦めが早すぎるんだよな。私は絶対諦めないぞ。それにしても私は別に子供の頃どんな生活をするかなんて想像していなかったが。なぜか大人が職業のことばかり聞くから、巡査になりたいとか、医者になりたいとか、職業のことしか考えなかった。ヘンテコだ。それほどあの頃の大人は職業に全生活が支配されていたのだろうか。多分そうなんだろうな。

 

 私は無論、いや無論ではないが明らかに、自分の希望の職種を持ち、その希望の職種につける場所に就職し、あらかじめ確約を得た部署に配属された。専門性こそが大切だと思っていたから、この職種を極めるぞと思った。しかし職種を極められる場所というのはほとんどこの世に存在しないのではないか。そしてそういう場所に入り込むには、入り込む前からその分野について自分で実践を積み、自分がプロであると言えるような人間になっていなければいけないんじゃないか。そして最近思ったのは、インターンというのは、自分がプロと言える域とかプロになっていける域に達しているかを確認するためにあるものなんじゃないか。

 

 話は逸れたが、同期の大半とはお別れである。さようなら。この3ヶ月の間に、同期間で告白したり振られたり、失踪して出社しなくなったりと、あまりにも豊かな新卒生活を送った同期たちだが、ここからまた新たな修羅場が始まるのかな。自分は本当にこの環境には疲れてきてしまった。でも君たちがいなくなったらきっと、もっと深く疲れてしまうわ。昼休みには勉強することにするよ。最近多動が悪化しているから毎朝落ち着く時間を持つようにするよ。私は同期との間に共通点を見出している。それは大切なところでいつも諦めてきたってこと。あと衝動性を乱発しておかしくなっていってるのに止められなくなることがあるってこと。私は同期を見ることで自分のそんな性質に気づいた。だからここから抜け出すためには、私はそういうのをやめるよ。