いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

やれやれだぜ

 なんかもう明日寝過ごしたらどうするとか色々考えて眠れない。色々と段取りもなく一応手は動かしてます的な感じで流れに流されるプランクトンのように、なだれ込むように、浮遊するようにしてふわらりらと直前まで来て、直前になると真面目になりすぎてどうしようどうしようとなるのほんとアホなので泣きそう。

 

 なんで早く段取りを考えないのだろう。いつも疑問に思ってるし改善したいと思ってるけど、段取りという発想が自発的にできるようになっていないので、まず段取りということについてよく理解する必要があると思った。段取りできる人とできない人は何が違うのか。よく考えたら段取りって実際には何?とか思ってるのでだめっぽい。学ぼう。

 

 何でもかんでも目の前に来たら本気で全力注いでしまうのはやめたい。もっと前から助走的に取り組み始めたいんじゃ。

 

 いまのところはとにかく逆に、まあそんな真剣に考えなくても。楽になろう、テキトーに行こうと言い聞かせるも、だめだこりゃ。てかほんとに寝過ごしたらないからねこれ。引越しできないかんね。こんなことなら搬入前日から身体ごと現地に移動しておけばよかった。

 

 疲れた時はとくに一回寝たら起きれなくなる性質がひどくなって良くないことになってる。寝ることは解放であると同時に恐怖でもある。

 

 引越しが迷惑かけないで終わるかも心配であれば、引越し前に大家さんに挨拶に行って嫌われないかも問題である。

 

 母が、引越しの前に両隣上下の住民に挨拶しなければうるさかった時非常識だと思われる、とアドバイスしてくれるのだが、こういう時に「〜〜しなければ○○というひどいことになる」「〜〜しなくて○○なったらどうするの」みたいな言い方はパニクり案件の引き金になりやすい。口で言われるなら聞き流す訓練は少しできているが、最近LINEで送ってくるので視覚情報からもろに来て、もう「うわあ!!!もうこわいよ!」となる。そして帰宅後面と向かってそれを私に再度言ってくるからつかれきるー。これを母に言っても「またまた変なこと言ってるよ」な扱いなのでなんともならない。私は閉じてるドアを開けたりインターホンを押したらノックしたりして、特定の人や知らない人に会いに行くのがほんとうに苦手で、何かそういう予定があると、もうその前の時間は何も手につかずうろうろしてしまうくらいなので、教授の部屋に行くのも大変だったし、やればできる時もあるけどほんと後で死にたくなったし超疲れが出た。そういう私に向かってこれをいうから。

 

 でもこれを思うと毎日知らない人に会う営業職じゃなくてよかった。

 

 あー、それにしてもいざ母から離れようとしたらこんな風であるとは情けない。よく考えたら自分も母の口調と同じように、「寝過ごしたら引越しできないでみんなに迷惑がかかる」と考えてしまってるので、よくないだろう。そこで「寝過ごさなければ明日引越しできる」と考えてみようと思い、そう考えてみると急激に眠気が襲って来た。安心だろうか。でもやっぱり、寝過ごしたら引越しできないのは事実なのである。そう思って脳みそが締め付けられるような気がした。なんでこうなるのか。どうであれ、立て直して働かねば。

 

 なんで毎回こうだめになるのに、いっちょまえ以上にタフな気分でいるのだろう。なぜ今回は全然いけるぜーなどと考えて完璧に挑もうとするのだろうか。こう書き記すことで次に活かせるのではと思ったこともあるが、なんか全然そんなことはない。また俺はタフにいけるぜモードになるので仕方ない。

 

 いつもどんな事象も、後から考えれば似通った事象なのに、その時には全く新しい出来事に思える。あまりに失敗することが多いのでいつも新鮮な気持ちで取り組むことのほうがPDCAできるようにすることより優先すべきだと、怠惰な脳が判断してしまったのであろうか否か。いつも「こういう時には気をつけよう」と思うのに、その時には全くそういうことに差し掛かっているとは気づかない。なぜこうなってる。どうすりゃいい。

 

 結局いまのところは「寝なければ寝過ごすことはない」と考えるしかなくなった。

 

 もう寝不足だから話が変わるのか変わらないのかよくわからないのだけど、「認知の歪み」という言葉がある。この意味は多分ウィキペディアとかを見た方がわかりやすいと思う。でもって私にもこれがあると思う。多分私は自分に認知の歪みがあるということを多分わかっている。

 

 そのせいもあってたまにこんな感じに取り乱すんだろう。でもこれってメガネに似てる。

 

 例えば片方の目の視力が極端に弱いから、左右の目で見ることができず遠近感がなくなって、通常の場合より物が遠くに見えていたとする。その時にメガネを作って、それをかけると危うの目で距離感をつかめるようになり、今までよりずっと物が近くに見える。これで見え方の歪みが解消されたというわけなんだが、本人にしたら、物が今までより近くに見えるという変化を感じる。二種類の見え方を経験したというだけで、そしていまは近くに見える見え方を使っているというだけで、医者が満足しているのにもあんまり納得できない。ただ前とは違う見え方があるだけ。確かにものにぶつかりにくくなったりはした。しかしそれはいいこととされてるけどほんとにいいことなのか。ものにぶつかって大怪我したわけでもない。ものにぶつからないことがいいことなのだろうか。車を運転して誰かを轢き殺したほどのことなんかなかった。せいぜい自動ドアが開く前にドアにぶつかるとか、トイレに行く時に柱との距離を見誤ったりとか、階段を一段踏み外すとかの問題。確かにこのせいで生きやすくなったかもしれないが、生きやすい見え方に直すことが、正しい見え方を得ることなのだろうか。それは本当に適切な見え方なのか。だからわかんないんだよ。そんなふうに、自分には認知の歪みを直すってことがわからない。自分にはこれが大事な見え方だと思ってしまう。生きやすいことが真実にちかいとは限らない。パニクってしまっような見え方しかしないほどの現実が真実かもしれないと思う。

 

人間だって動物であるからには、物が見えたらぶつかってマーキングするのが普通の行動かもしれなくて、そういう行動に適した見え方を残した人間を、鈍臭く見えるからとかの理由で無理やりひねくれた見方に矯正しようとしている可能性もあるんじゃないか。

 

 いやないか。なんかおかしなこと言ってる気もする。このように考えてしまうこと自体認知の歪みか。

 

 つまり引越しで埃が出て喘息になったのが悪い。家に埃溜めないように気をつける。ムキムキ