いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

疲れたよポチ

昨日は寝てしまったので昨日の分も合わせて

 

できなかったこと1

眠気覚ましにマックのコーヒーを飲んでマック食べたらばくばくしてしまいあとなしか試験開始を待てなかった。胃も痛くなった。コーヒー久しぶりすぎたのであろう。

 

できなかったこと2

昼休み吐き気がして大人しくできなかった

 

できなかったこと3

解答用紙に文章がおさめられなかった。はみ出した。

 

できなかったこと4

休み時間うろうろしちゃって気持ち悪くなるので床にしゃがんじゃった。エレガントじゃない。

 

3時間くらい寝てないのに以外とアウトプットはできた

味噌汁良いのかも。コーヒーもこの場面では役立ったのかもしれぬ。

あらかじめ何の問題が出るかわかっている教科は自分なりの回答で準備しやすい。たとえば、「〇〇基本法はその後の〇〇政策や立法にどのような影響を与えたか。今後の課題と合わせて答えよ。」みたいな問題。自分なりに考えておける。自分が他の本で勉強した知識も活かせる問題。こういう問題こそ、それぞれ違う勉強スタイルを持った人間が各々の強みを生かして回答できる良問であると思う。

 

できなかったこと5

ピンクのマーカーで塗った部分、あとで疲れた時に読もうとしてもチカチカして読めない。

 

げんげという魚を初めて買って料理してみたのだが、頭が意外に大きいのとなんかブワリュンブワリャンした掴み心地なので面白くなってしまった。泳いでるのをみてみたい。安いスーパワーなのにラップがトレーに二重がけになっていて、それによってドリップが一滴も漏れていなかったので感動した。魚担当の人が几帳面な人なのだろう。本当にしっかりしていた。しっかりしている仕事というのは忘れないものである。

 

 できないことを書いているのは当然後ろ向きな理由ではなく自己理解のためなのだということを書いておきたい。私はもう20年以上もどんな仕事であれ自分の思った通りには行かないということが当然な生活をしているのですが、それでも今まで元気で生きているということは、うまく行かないことをそれなりに笑ってスルーできているということで、できないことを書いたところで悲観して死ぬほどではない。でも実はその笑ってスルーできるという能力があるのが案外に不味くて、いつのまにか、うまく行かないことは笑ってスルーするもの、というふうに自然に流れるようになってしまった。そして改善とか工夫というものがなくなってきてしまったので、この、できなかったことリストを見ることによって人に相談したら自分で考え直したりするために書くことにしたのである。というか作ってみてから、そういうことに使えると気づいたのである。確かに泣いたりはしてるけどこれは悲観してるということじゃないと自分では思っている。

 

ルヴァン食べたくなり久しぶりに個人店で買った。180円税込なり。ご自由にお持ちくださいと書いてあるカゴの飴、「飴いただいていいですか?」と聞いたら「いいですよ、ちょっと苦いですよ」と嬉しそうに言われた。コーヒーの飴だ。この飴、昔はもっといろんなところで見かけた気がするのだが。

 

 

 

できなかったこと6

レポートの課題だったので震災の原発事故の賠償関連のシンポジウムへ。内容は面白そうなのだが、出席人数が把握していたより多かったらしく資料の部数が足りなくなっていた。それで資料を見ないで聞いていたのだが周囲がおっさんでタバコくさすぎて死ぬかと思った。いつからタバコの匂いにセンシティブになったのか。というか特定のタバコ以外に弱い気がする。

 

会場が長方形で、音響がとても悪かった。マイクの音がスピーカーから流れるようになっているのだが、とんでもなく大きい音を流していて、また人も多かってので酔ってしまい1時間くらい退席した。もらった資料が多い。頑張ってレポート書かないと。レポート課題は少なくとも1ヶ月前には提示してほしいものである。2月1日に提出とは........。なぜか大学では学生に無理させて短時間でレポートを仕上げることを要求するが、習熟度の問題から言ってもそれは全然良いことではないと思う。いろんな場所で発達障害学生にもユニバーサルな課題の出し方を検討してほしいというより、まともな理由ある余裕を持たせて課題を出すこともその前に考えて見てほしいと思う。というか発達障害は病気とかいう人いるけど、捉え方とか感じ方とか生き方とか反応のしかたが違う人というわけで、むしろ就職採用活動でもそういう人を一定数採用することが良い方向につながるのではと思う。学生が苦しんで仕上げていると嬉しいというような大学の性質は妙だと思う。実際は苦しいと言いながら、これ以上苦しんで早くする暇はないという発想で支離滅裂なレポートを仕上げている人もかなりいるのである。

 

まるで学生に余裕を持たせて仕上げさせようものなら誰も素晴らしくて、時間のない我々教師陣が読んで甲乙つけるのに手間がかかるので無理と言わんばかりのやり方。

 

この世の中はいろんな場面で他人に圧をかけるポイントを間違って、それぞれの人間が間違いあっているばかりに追い詰め人を精神的に張り詰めた状況にしているように見える。

 

こうしたくだらない仕組みの期間を世の中ではモラトリアムと呼ぶのだが、こうしたくだらない仕組みに適応できず休学したり病気になったりした人を落伍者扱いすることのさらなるくだらなさはどうしようもない。モラトリアムとかいうのなら、その期間に資格的価値を見出すのはおかしい。大学に行くことがまずこのように私にとってはリスクであったのに、まさか大学に行くということがリスクとは想像だにしなかったのである。

 

 げんげという魚は美味しかったが、プルプルすぎて魚感がなかった。 

 

できなかったこと7

シンポジウムで、教授同士が、その場で立って質問し、質問されて答えていた。私にはこういうことができない。質問の言葉はとても長かった。私なら質問の途中で意識がそれて訳が分からなくなってしまう。

たまに私も講義で質問するのだが、質問している途中に自分がどこまで話したか分からなくなってしまい、また意味のわかる質問をできているだろうかと挙動不審になったりしてしまい、また質問の答えを先生が話しているのを聞き取れなくなってしまい、また理解できなくなってしまいぐったり疲れる。

 

できなかったこと8

ちゃんと起きられなかった13時間半も寝てしまった。しかもそのあとどうしても意識を覚醒できず5時間半という時間、何もせずに過ごしてしまった。立ち上がろうと思っているのに立ち上がれない。意識と動きのトラブルとでも言おうか。

以前図書館は休みだとわかっているのに図書館にいってしまう行動をやめられなかった際の記事はこちら

giveus.hateblo.jp

てかこの日も寝てしまったのか笑 昨日も頭痛くて寝てしまったんだよな。何か関連があるのだろうか。

 

 メラトニンを飲んでみたいが低血圧がもともとなので、副作用でさらに低血圧になる可能性があるものは、翌日何もない時にしか飲めない。これ以上低血圧になると何もできなくなってしまいかねない。目覚まし三段がけすること。

 

 自分の遺伝子を残したくないという話を書いている人がいた。

haruusagi-kyo.hateblo.jp

 私も十代の頃から自分の子供を作りたくないと思っていたので、共感した。十代の頃は障害とかもわかっていなかったのに、自分の遺伝子は残したくないし、自分の子供も持ちたくないと思っていた。そもそも自分の遺伝子は最悪の遺伝子だと思っていた。自分の両親も含めて。

 

 自分の血を輸血される人がいたら嫌なので献血もしたことがない。最近はそういうのは関係なくて輸血は人に役立つからしようと考えを改めたのだが貧血の時しか献血車に会わないので結局まだしていない。けどそのことにちょっとホッとしている。

 

 私は旦那のことがとても好きなので、旦那の子供なら育てたいと思っている。しかしそれは私の子供を育てたいということではない。旦那が細胞分裂みたいに子供を作ってくれないかとひたすら神に祈りを捧げているのである。人間だからそれは無理なんだけど。他の人と作った子供でもいいのかと言われれば、ちょっと嫌な気もするけど、その嫌なことも含めて全然平気のうちに入るくらいには大丈夫というくらいには好きだ。それよりも多分自分の血が含まれていない命を育てているんだという安心感の方が、そしてこれは旦那の子供なんだと思う安心感の方が強いと思う。ちょっとびっくりする人もいるかもしれないのだが、私も書いていて、自分が思っていることなのにこんなに自分の遺伝が怖いのかと驚いた。

 

 もし私が、私が苦しんで生きてきた以外の、この私でも苦しまないで生きていける生き方を見つけたら、自分の子供を産んで育てたいともう。そして苦しかった道を行かせたくはない。自分の子供には自分より幸せになってほしい。周囲と同じ仕事を同じ時間で成し遂げようとすると私だけクレイジーな状況に陥ってしまう。そういうことをしなくていい生き方と、それを実現するための取り巻きと、そのための金を子供に残せるか、これはかなり困難だと思っている。

 

 正直私の子供なんかどうでもいいと思ってしまう。私の子供なんか、いくら何やっても私の子供なんだと、だから作らないと思ってきたのもある。だけどこれが旦那の子供でもあるなら話は別で、絶対に幸せになってほしい。けどそれを実現するための手助けになる幾つかのものすら、この世では用意するのが難しい。

 

 自分が幸せだという人がいた。幸せってなんだと私は思ったのね。でも旦那にあってそれがわかった。だから子供を作るなら幸せになってほしいんだよ。そして好き勝手に子供を作って、あとは自分のドタバタに自分を哀れんでいた両親を軽蔑する。

 

 

 あえて言おう私は旦那を見て考えるためだけに生まれてきたのだと。あえて言おうこの世になんの価値もないと。あえて言おう言葉にもなんの価値もない。あえて言えばこのブログにもなんの価値もない。ただなんの価値もなさすぎるが故に私が惜しんで書いているだけのことだと。あえて言えばそういうことだと。

 

 ではなぜ心で価値を生み出すのかと聞かれれば、私にもわからないが、この世になんの価値もないが故に、惜しんで価値を生み出そうとしている。というよりはもしくはこの世に執着などないので、あえてこの世にいる人に危害を加えたりなどするよりは幸せにしてあげたい。旦那を見続けさせてくれるこの世界を少しはいいところにしてお礼したい、とでも言ったところか。

 

 なぜこの世に執着がないのに大学を卒業したいのかと言えば、この世で旦那にできるだけ楽に生きてほしいからだ。そのためにはできるだけ生涯年収を上げる必要がある。良い医療を受けるだけの貯蓄をする必要がある。お分かりになるだろうか旦那が私に価値という言葉を教えたのだ。

 

 できなかったこと10

 なぜかいつも法律の本を読みながら六法を引いていると、途中から六法を引くのをやめてしまって、本ばかり読もうとしているということをなぜだろうと不思議に思っていたのだが、自分は六法を見て本を見ると六法に書いてることを忘れてしまい、六法を見ると本に書いてることを忘れてしまうので結局参照しながら読むということができなくなっているんだとわかった。入学した時からそうだった。なぜもっと早く気づかなかったのか不明である。どのように勉強したら良いか。

 

 一体私には何ができるのか

 では一体私には何ができるのか。

 私は体が強くない。喘息、自閉症スペクトラム、多動、感覚過敏、低血圧によって常に疲れている。なのでできれば体育会系の力を使ってする仕事は避けなければいけない。んでもどーしたらいんだ?

 

 素早く勉強することはできない。だから法律の国家資格を取ってそれで食っていこうというような目論見を立てるなら長いスパンで計画して勉強しなければならない。 その時間は違うことをやろうと思えばやれる時間。それをやることがいいことなのか?

 

 私ができるのは、長い時間をかけいろんな方向から知識を取り入れてその世界観を理解するような勉強だけだ。あまり試験向きではないと思う。

 

 それを考えると中高の社会科の先生というのは適職だったのかなあと思う。最近そのことを考えている。いつかはそっちへ行きたいと思う。長い間かけていろんな方向から学んだことを生徒に話す。生徒は世界観ごとその教科を学ぶ。

 

 まあなんでも頑張りですよ、と思うけど、今はこれ以上頑張れないし頑張りかたもわからないよと思った。卒業したい。疲れたよポチ。

 

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