いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

こういう表紙裏表紙の紙が好き 名前は知らない

 最近は文庫本の表紙も、ツルツルしたプリントがほとんどになっているけれど、古めの本にはこういう紙を使った表紙もあり、私はこの写真のような表紙裏表紙の紙が好き。ワッフル地?ぽい、ポコポコしているもの。これは佐々木邦という人の本。

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 *1

 

 この佐々木邦という人には特に興味はなかったが青空文庫にいくつか作品が上がっている。『朝起の人達』という作品が上がっていて、今日寝坊したばかりなので(三百六十五日中三百五十日くらいは寝坊している私)開いてみるとこんなふうに最初のところに書いてあった。*2

 

 医者に勧められて朝起を一月ばかり続けている中に疑問が起った。古来朝起は一種の投資的美徳になっている。朝起三文の徳ともいえば、ずっと桁を飛ばして、朝起十両ともいう。前者は一回分を指し、後者は一生を通じての話と察せられる。西洋人も、

 Early to bed and early to rise, makes a man healthy, wealthy and wise.
(早く床につき早く起きることは、人を壮健、富裕、賢明ならしむ)

 とたたえて、韻律的に朝起を奨励している。而も私は一ヵ月間実践躬行じっせんきゅうこうの結果、壮健にも富裕にも賢明にもならない。神経衰弱は以前もとのまゝである。金は少し損をした。智慮分別は多大の打撃を受けて、精神に異状があるのではなかろうかと考えるようになった。
 私のかゝる医者は年来懇意の所為せいか、私の身体からだを知り過ぎていて困る。私が見て貰いに行くと、
「何うかしましたか?」
 と驚く。私のようなものが何うかする筈はないと思っているから、
「神経衰弱のようです」
 と言って、その都度此方から病症を暗示してやらなければならない。引き続いて私が容体を述べる間、
「はあ、成程、はあ」
 と先生は何か他のことを考えながら相槌を打って、
「一つ拝見致しましょう。熱はないでしょうね?」
 と来る。熱のないことは先刻さっきから言っているのである。

 てな感じで「早起き意味なくないすか」という感じで始まっているのだが、この人は子供が読むものとかを書いてた人だと思うし、戦前のことであろうし、そんなだらしない結末のまま最後まではいかないだろうと思って読み進めた。

 

 それでなんかこの人は動悸がするから神経衰弱で役所を休んで休養とか転地療養とかをした方が良いのではないかというのだが妻とか医者はそんな深刻ではないというが、結局二ヶ月の休養を得て、医者は朝に散歩して朝日を見なよ、って言ってくる。

 

 でもって散歩に行って朝日を拝むと、いきなりこの戦前っぽい展開がやってくる

 

日の出る頃には十五六名集った。しかし大多数の人はこんな壮麗な光景を余所よそに惰眠を食っているのだと思ったら、気の毒になった。尚お新鮮な空気を充分に吸って帰途につくと、牛乳屋や新聞配達がポツ/\歩いていた。家の近所では女中達が未だしどけないなりをして彼方此方で門を開けていた。

 いきなり、「みんなが寝てる時に活動するのはいいもんだ!」となる。

二日目は丁度日の出る頃に公園へ着いた。三日目は雨が降ったが、四日五日とも好成績だった。薄暗い中から起きると一日も随分長いものだ。世間が寝ている間に活動をしているという意識は有難い。朝が大仕事だから、夜は退っぴきならず早く休む。こんな具合で医者の註文通りの生活が十数日続いた時、妻から苦情が出た。 

 妻から苦情が出たのは病気で休んでるのに散歩なんかしてるから近所で悪口言われたり噂されたりするじゃないの、ということ。

 

 どうせ道徳の教科書みたいな話なんだろうと思って読んでいると、そのうちなんかそうでもない。

 

 主人公は毎朝散歩する中である朝、ちょっとした話で、話の合う人を見つけて共鳴するのだが、迎えに来たその人の親によってその人は「訳あり」の人だとわかって、

 

私は狂人きちがいに共鳴したのかと思ったら落胆がっかりしてしまって、昨日一日心持が悪かった上に、今日はもう朝起をする気になれなかった。 (終わり)

 

 という全然教育的じゃない内容だった。まじか・・・ これは子供向けの雑誌に載せたのではない作品だったのだろう。まさかこれを子供に読ませてもなんとなるものでなし。講談社から出ていたキングとかと並ぶ雑誌に載せられたものらしい。あまり覚えていないけどそういえば「苦心の学友」なんかもそんなに道徳的な感じではなかったわ。1920年代なんかはこんなのもずいぶんたくさん読まれていたんかなあ。

 

 私は泣きたくなるほど早起きできたことがない。朝日を見たのは徹夜した時だけ。というくらい。今までありとあらゆる早起きできそうなことを調べ、試して来たのだが、一度たりとてできたことがない。おかしな話だ。

 

 でもこの作品を読んで、思えば朝に大仕事をしようと思っていたことはないので、何か朝に大仕事を据えてみようかという気になった。とはいえ朝にそんなやりたいこともない。そこで思い当たったのはお百度詣でである。いつも拝読しているブログの人が書いていて、もちろんその人はちゃんと御百度を踏む理由があってお百度をしているのだが、色々調べたというほどでもなく調べて見たらこれは早起きのために良いのではないかと思うようになった。

 

 これを一番厳しくやろうとすると、毎日同じ氏神のところへ行ってお参りするとともに、これを誰にも見られてはならず、しかも一日も明けることなく毎日一人でやるっていうものらしい。裸足でやるとなお良しとか書いているサイトもある。

 

 しかしまずこういうものは誰かがやったら自分はもっと厳しくやってやるという気持ちになる人間のサガを反映しているためか、やたら厳しさばかり増していく一面もあると思うので、こんな厳しくて実現不可能かに思える数々の制限についてはあまり構わなくても良いと思う。

 

 裸足でやっても別に良いのだが、そして毎日同じところへ行くこともいいのだが、私は徹夜明けなどによく散歩でそっちの氏神のところへ行くと朝日を浴びて乾布摩擦しているおじさんがいることを知っているので見られないで御百度を踏むのは無理。というわけでそんなどこから湧いたかはわからないもっともきつい条件でやるのは無理である。夜は見られないけど危ないし。夜にあんなところへ行って襲われたらちょっと私もあえて餌になったようで申し訳ないし。

 

 そこで私はお百度マイルールを作ることにして、

 まず一番大事なことは毎日やることで、朝日が出た後1時間半のうちにやること。一日一回か二回しかやらない。毎日やって100回まで詣でる。そうでなければ祈りに意味はないということにする。どうせ寝過ごしてしまうことは常であろうが、祈りに意味が出るまでやること。祈りの意味って言葉も変な気がするが適切な言葉が見つからなかったので。

 

 お祈りする内容は身内のことだが、ここには書かないことにする。ただこれは四月になる前に叶えたいという気持ちでいることなので、なんとかやりたい。お百度について書いているそのブロガーさんより大したことない内容なので恥ずかしい感じがある。なんでも私がやることは子供じみている。何と言っても24歳にもなって早起きができないのだから。ううむ。そもそも早起きのためにお百度を踏もうという考えが自分のためでしかないし不純なので意味なんかないのではないかという疑惑もある。自分って、何か別のことのためにもなると思わないと何かする気にならないのだろうか。そういう自分の傾向についても考えていきたいな。

 

 で結局この朝起きの人はただ朝起きしているだけでは不健康になったけれど、散歩も兼ねて朝起きすればそんなに健康に悪くもなかったということなのかな。それとも仕事しないで早起きしているのはいいもんだったということだったのかな。私としてはなんとなく佐々木邦さんも早起きできない人だった気もするのだな。

 

 注釈機能初めて使ったけれどかっこいい。引用も使うべきところでないところに使った気がするのだが、だんだん慣れて行くのですいません。目次機能も使ったことがないのでいつか使ってみたい。

 

 

 

ホカロン貼る 30P

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