いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

感心する

 企業説明界等に参加すると、そこに居る社員の人と話せたり、企業のことを理解できたりと良いことが多いが、それよりなによりも前に、ただただ感心する。

 

 特に大企業では、これまで大きな人数をまとめたことのない私には想像もできないほどの大人数が、長年にわたって入れ替わり立ち替わりもあるが結束して、毎日通勤して、毎日ちゃんと事業として成り立って、その会社を続けてきている。100年続いている会社なんかは本当に感心する。利益を出して存続していること、それは本当にすごいことだ。どんな会社で働くのであっても利益を出して存続している会社で働いているかぎり学ぶことがありそうだと思うほどである。

 

 企業はそれぞれ独自の理念や理想を掲げていて、それを実行できる資本力があったりなかったりはしつつも、目下利益を出して存続している。理念や理想はたんにお飾りと考えるべきで、実際やっていることはどうなんだということが大切かなっておもうけど、それはまあ言うは易しということですね。理念や理想はお飾りというよりは、ある程度企業が大きくなってしまってからは、それを実行できる資本力があるときにのみ本当に理念に基づいて行動できるんだろうと思う。

 

 

 人間も同じだと思った。こう生きたい、他人に対してはこう接したいと思っていても、それをできる財力とか経済的余裕がないと、それをするために精神的余裕も時間的余裕もない。理想の生き方に近づくために、私もできるだけ自分に知力も財力もつけたい。いくら子どもの時から人を助けたいと思っていても、自分に余裕がなくてはできないし、優しい言葉をかけることなら出来るよと言っても、それじゃなんとかなるわけない人が多いことはお分かりだよ。

 

 ドラッガーという私はよく知らない人が言うことによれば(書いたのかもしれない)、ある事業が企業に利益をもたらすことは、事業の「目的」ではない。「目的」と考えてる人も居るけど、その人は的外れで、本当は利益が出るかどうかは、その事業プランが妥当であるか見るための「尺度」に過ぎないんだそうだ。それについて特に私は賛成も反対もない。

 

 だけど経営者は被雇用者にお金を払わなきゃだめで、だから利益を出すことをついつい最優先に考えていくだろう。今月払う金がそのまま自分の借金になることはよくないし、払わないわけにも行かない。

 

 だから被雇用者は経営の方針は経営者が考えるものと思っていてはいけなくて、むしろ経営者にだめと言われそうなわくわく企画をいつも考えて居なくては行けないんじゃないのだろうか。被雇用者がわくわく企画を考えて、それを経営者の「尺度」で選別する。

 

 さすればなんだか被雇用者の方が裁量がおおく、自由な労働者みたいな気がする。

 

 とはいえどこかに入社するとすれば、私は事務的な作業や処理の方法を一通り身に付けるだけで必死だと思う。説明会に行くと、色んな会社の枠というか、箱について説明される。この枠はシリコン製で柔軟性があるとか、色が明るくて働きやすいとか、でも正直私はどこの枠でもわくわく企画をつぶやき続けられるならそれでいいとおもっている。わくわく企画が一つでも世の物として実現する過程を見ることが出来たら、ふつうに仕事しててよかったなあと思う気がする。別に世界中の人のためになっていなくても、誰かがそれを買ったりつかったりして、楽しんだり喜んだりしてくれていたら、それはいい仕事したってことだなと思った。

 

 なんかわけわからないこと書いてると思ったら私花粉症になったみたい。頭が回らないし色々花粉症。