ひょんなことでキリスト教グループの若者が大学の講義にやってきた。実際にはどんなひょんなことがあってやってきたのか知らないが、とにかく先生がキリスト教信じてる人だからその繫がりでやってきたようだ。
キリスト教を信じている留学生にとって、キリスト教について興味関心、追求心や揶揄の心をもって敬遠している日本人学生のところへやってきて自分の信仰に関する質問に答えるのは、勇気のいることだっただろう。
私なら海外に留学して自分の信仰について話してくれないかと言われれば必ず断ると思う。もちろん私は確固たる信仰を持たないということもあるが、好奇の目にさらされたくないのだ。
私はキリスト教に関してかなり多くの不満がある。キリスト教に対して、というか、宗教に対して、なのだが。
この世の中には何にも悪いことをしていなくても社会的に集団リンチにあう人が居る。そういう人間を助けられない神など、私はやっぱり信じられない。でも宗教にはいいところもあると思う。たとえば私と話したキリスト教者の女の子は、神を信じることで、神が臨んでいるであろう「より良い人生」を送ることが出来、「より良い人間関係」を構築することが出来ると話していた。そして彼女達は神と非常に親密な関係にあり、神は彼女をよく知っていて、ちゃんと見ていてくれるんだそうだ。それによって彼女は人生の目的を得ることが出来た。そして幸福感が得られて、自分を律することができるようになった。
そうか。
それは納得できる。だから私は自分の半分だけの部分で神を信じることが出来る。それは信じてる振りをして、精神の安定を保つために神を利用するということだ。本当は信じていないということはもちろん自分では分かる。彼らに言わせてみればそれは信じているとは言わないのかもしれない。
人生のある段階に至ると、大切なものを切り捨てて、もっと大切だと自分が思うものに力を注がなければならなかったりする。そのときに、やはり正しい選択をしたと後々まで思えなくてはやり切れない気持ちになる。そんなときにもし私が神を信じていたら、神がのぞんでいるであろう、よりよい人生のためにしたのだと思えて楽だろう。
もしある人が新しい妻と結婚するために子どもと妻を離縁する、ということがあったら、あとで新しい妻が裏切った場合かならず後悔すると思う。しかし、前の妻と子どもはもう自分たちだけでも暮らしていけるくらい裕福になったのだから、この貧しい婦人を救うために一肌脱ごう。そのことは神がのぞむであろう、よりよい人間関係、よりよい世界の実現に役立つ、と考えたら...もし新しい妻が裏切っても自分は神の心に沿って行動したということだけは確かだから残る。神を信じることはそんなふうに、無敵のむかつく鉄兜人間の生産手段だと思う。
英語の先生はキリスト教者で、日本の学生よりアメリカ人であるキリスト教クラブの若者はしっかりと人生観や世界観をもっているという。だけど自分の価値観をもっていることが神を信じることによって実現しているというなら、私は決してそれを優れているとは思わない。我々が劣っているとも思わない。
読書
・浅田次郎『珍妃の井戸』
[引用]
カトリックの北堂をご存じですか。事変の初めのころ、義和団員たちが殺到して、あそこはひどい激戦地になりましたのよ。
北堂にはファヴィエ神父というご立派な司祭様がおいでになります。ほんのわかいころに北京に赴任されて、ずっと流民達に施しを続けられ、孤児達の面倒を見ていらっしゃるお方です。(中略)
義和団の標的となったカトリック信者は、みな北堂に逃げこみましたの。わずかなフランス兵とともにカテドラルにたてこもって、ファヴィエ神父はライフルをお執りになられたそうです。『珍妃の井戸』
・赤川次郎『充ち足りた悪漢たち』
寒くなります。暖かくしてお読み下さい。これではない表紙のやつをもっているのだが、表紙はこっちの方が秀逸と思った。とか思いながら私がもっている方の表紙は誰のデザインかなと思ったら佐伯俊男だった。三上寛のアルバムジャケットを書いていた人じゃないか。ちょっともっと寒くなった。
・遠藤周作『沈黙』
近頃電車の優先席で熱心にこれを読んでいるご老人が居て思い出した。
・佐藤優『同志社大学神学部 私はいかに学び、考え、議論したか』
読んだことがあるのにキリスト教について書いてあった気のしない本。学生生活が楽しそうだと感じた本。
同志社大学神学部 私はいかに学び、考え、議論したか (光文社新書)
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・中島義道『差別感情の哲学』
[引用]
社会的な規制や迫害がなければ、そのままの文化を保ったまま、こうした集団に属するメンバーは幸せを感じることができ、自由にかつ誇りをもって生きることが出来る(後略)