いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

生きてきたことは私の宝だ夏は雨

放送大学の試験が終わった。仕事をコアタイムギリギリまでに一生懸命終わらせて、(私の職場はコアタイムとそれ以外の時間という区別があって、コアタイムは必ず仕事していないとならないが、それ以外の時間は通院とか役所銀行に行くとかの理由で自由に退勤してもいい。もっとも基本は勤務しているが。)コアタイムが終わったら切り上げて試験を駆け込みで受験した。

こんなことも、ウェブ試験が不可能の時代であればできなかったし、本当に良い時代になった。今回試験を受けた科目は下記の通り。2科目のみ。

 

これは前学期に登録して結局試験が間に合わなくて再試験になった科目です。

それについては、これで良いと思っているので、今学期も新しく履修した科目の試験は来期に繰延しました(おい)。

 

身近な統計(’18)→数学が分からないので、教科書が読み進められず、解説にもついていけなかった。そのため、本当に自分は数学をやらなければいけないと思う。

感染症と生体防御(’18) →すごく面白かった。子供の頃、大学へ行ったらこんなこと勉強したいなとも思っていたが、数学とか理系科目が理解できなくてそのような学部へはいけなかった。コロナウイルスが流行している時節柄もあって、興味深く、テキストも隈なく読んだ。数学ができなくてもわかる。関連書籍もいちいち面白そう。

 

スタディサプリというサイトで数学の動画を見ていたら、

とてもわかりやすく、またやる気の出るサイトのデザインなので、今の子供はこんないいもので勉強しているのか、と思って、羨ましい。かえって大人用のもっと何倍もする資格試験の講座のサイトがしょぼい。

2万数千円を毎年入金するだけで、自分より上の学年の授業も受けることができるし、こんなことだったらお金のある人は学校の講義とか受けないで、こういうものをみるようになるだろうと思う。教材も全てパソコンの画面で見られるし、講義も動画で倍速再生できる。最高である。家のネット環境やICT活用に関する対応がダイレクトに子供の学習環境を決めてしまう時代になってるなと思う。

 

社会人になっても勉強していたら、自分のわからないところを戻って確認したりするので、その過程で今の子供はこんなふうに勉強をしているんだ。と思って本当に驚く。それだけでかなり楽しい。

 

川中で 手を洗いけり 月澄みぬ

なんであってもいいから正しいことでお金を稼いで、先のためになることに使いたい。

 

コーヒーを飲んでみたけれど、コーヒーを美味しいと思う気持ちをなくしてしまったかもしれない。もしくは苦味が多い豆が好きだったけど今は酸味が好きになったのかなあ?

 

コーヒーには美味しいお菓子がないとなあということなのかなぁとも思うけれどそんなもの前にも別になかったからおかしいなと思っている。味覚が変わったのかもしれない。

 

遠出したときの写真を見たらマスクしてるのばかりだったから、後で見返したら面白いだろうと思ったけれど、この時代に死んでしまったら、「こんなに予防もしてたのに死んでしまった」となるだけで、なんともならない。そんな悲しい結果とならないように感染予防にベストは尽くす。 

 

マスクがまた買えなくなるかもしれないなと思って、在庫を持ってないのでマスクを買っておいた。また米とか、イオンウォーターとかも買っておいたほうが良いかもしれない。

腕時計をせっけん洗いできるものに買い替えた。身につけるものを買い替えるのは嬉しい。

 

行き止まりの世界を生きている。背後の壁を不思議そうに見る人たちに、自分の親に、兄弟に、過去の自分に、ここ以外一ミリも先には進まないで自分はこれにこだわるのだと言う情熱を着ている。

 

 

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コーヒーをしばらく買わなかったら好きな豆を忘れた

コーヒー焙煎をしている店があって、そこで前はよく勉強のとき飲むコーヒーを買っていた。最近は勉強をする時間がそもそもなかったので、全然買っていなかった。

放送大学のテスト勉強をするのにいかにしても打ち込めなくてコーヒーを買いに行ったら、そしたら好きな豆の種類を忘れていて、いつもと違う豆を買ってしまった。

酸味が苦手でコクがほしいので、しっかりブレンドという豆にしたが、これはコクがなかった。後味もなく、サクッと飲める感じ。でも私はあとに残る香りが好きなので、これじゃないほうが良かったなーという気持ち。でも美味しいから飲んでいる。値上げしているが私の給料は1円も上がらないが、どしよもない。

Twitterで有名な講師の人が書いた本を買ったので、読んだら感想を書きます。

 

素朴な反応に対する反感

自分の親と自分の遺伝上の繋がりを検査しないまま人生を終える人は多いのではないかと思う。自分の親が死んでしまって遺骨は墓に入れたような場合、私もそうだけれど今思い立って本当に自分が親の子供なのか調べることはなかなかできないのではないか。

例えばあなたは私の子供ですと言われて生んだときの写真を見せられても、作った写真かもしれないし、それが自分なのか否かわからない。戸籍だって本当かわからない。

そんなことに関係なく私は存在しており、それだけが私にとっては確かだなと思う。

 

 

テレビで番組やっていたことをきっかけに、里親の本を読んだけれど、ハードな環境で育った子供の場合何かと予想外の行動を起こすことがあり、多分普通の心理学とか保育のことを広範に学んだだけでは、これがあれか、というような日常のトラブルを乗り越えていくためのきめ細かな知識を得ることができないと思う。

 

里親をやっていて「偉い」と言われると嫌だということが本に書いてあって、それは私が「働いて偉い」とか「勉強して偉い」とかいわれると黙ってほしいと想うのと同じだと思う。それは金銭面や精神面やいろいろな事情を勘案して、私がそれを選んだ。選択して行っているというにすぎない。

 

他人がなんと思おうと気にしなければ良いとは思うけれど、大人になると評価された言葉に返答する必要が出てくる。子供の場合は黙っていればいい。そんなときに簡単に思ったことを言うと変な感じになる。でも簡単に思ったママを言いたい。でも多分それ言っても「でも偉いよ」みたいな返しになって余計イライラしてしまうことだろう。偉いというより私にはこの道しかないのですよ。偉いとかではなく、それが偉くなくても私を放っておいてほしい。

 

本を読んでいて、家庭で育つことが施設で育つことより子供にとって良いというような内容があった。家庭で育つということはいろいろな人の感情を背負ってしまうことになる。私は家庭で育つことが良いというような考えはやはり家庭である程度幸せになれた人の幸せな偏見だと思う。

それよりも施設が家庭が与えうるものを与えるよう変化する必要もあるのではないですか。子供のときに自分で判断する暇もないような目まぐるしい生活の変化をやらされて、やはり家庭に子供を引き込もうとするのは大人のエゴだと思う。けれどこの世の中には家庭で子供を育てることで本当に人を幸せにできるような里親もいるのだろう。そういう人をどうやって見分けることができるだろうか?

家庭というものをそこまで偏重しなくても良いのではないかと思った。家庭が良いものと言いたい人は「家庭を持っている作れるわたし」と「作れないかわいそうなあなた」という上下の関係を無意識に内包している気がする。家庭があって育った人が社会の大半かもしれないけれど、そうじゃないからと言って無理矢理に自分たちの環境が良いのだと決めつけて、そっちに寄せなくても良いのではないか?環境の良い悪いという明確な決めつけがあるから、辛くも思うのだと思う。ただ事実として家族は持たなかったというだけで良いのではないか。

 

本の中にあった「虐待された子は虐待を誘発する」ということにはハッとさせられた。とても苦しいことだと思う。自分もそういう行動を取ったことがある。

 

両家って何

コロナ禍で、というか私があんまり親を旦那の親にあわせたくなかったので、両家顔合わせがここまで伸びてしまった。そしてまた企画した途端にコロナ感染者が増加している。昨日東京は18,000人ほどと、20,000人に届く勢いだ。それでも実行すると両方の親が言うので、決行することになった。

金を死ぬほど使うので大変だ。昼ご飯を一緒に食べる場所も、母が泊まる旅館も私達夫婦と旦那の両親で負担せねばならない。これ一回やれば二度あることではないからとなんとかやる。旦那の両親は年金生活者なのだが旦那のお父さんが郵便局の夜の仕分けバイトにいっている。いつになったらこういう行事を前向きな気持ちで行えるのだ。多分ないだろう。私はお金を一気に使うのがとても嫌いなのだ。生活のために必要なものを買って生きていきたい。

 

両家顔合わせのことをいっておいて何だが、私は家族とは全然関係なく暮らして生きていきたい。私は家族に相談すると、家族のことが苦手すぎて、家族が言ったのと反対のことをやってしまう。わざわざ自分の人生を破壊してしまう。私は親に自分のやっている仕事のことを話したくない。保証人になってくれと頼みたくない。なにか悩んでいるときに、保証人に迷惑をかけたいでね?と言われたくない。保証人に迷惑をかけない確信の持てる仕事なんかどこにあるのだ。だからこそ保証人をつけさせるのに。

 

親の意図から逃れるために私は人生をいたぶってしまう。人生がメタメタになってしまう。これまで一体どの部分が自分の自由な人生だったのかわからない。旦那を好きになったことくらいは自分の自由と思っている。基本的に親のことで私はおかしくなる。私のことがうまくいかなくて親のすべてが否定されれば良いと思う。自分が死んでもそのせいで親が死んだら幸せだと思うくらいに親のことが苦手だ。どうして片方の親が死んだのにまだ片方は生きているのか?いっそ自動車事故のように突然両方死ぬような出来事であったなら……。

 

私は保証人無しで働けるようになりたい。どうせ十年経てば親も働けず、保証人になれなくなる。保証人無しで働くそのことを夢見て何度でも練習している。その瞬間を。私は保証人がいないですが、これまでの実績からいって、保証人の必要性はありませんよね?もちろんですとも。ではこれで、入社していただきます。はいわかりました。みたいな感じ。

 

幾度も暗い川に沈めるときを夢見る。それは静けさとともに解放する。眼の前には青い山が広がっている。私は親のために眺めの良い部屋を予約した。そして暗く静かな川に沈める夢を見る。その夢を見るために私は親のために眺めの良い部屋を予約した。眼の前には青い山がいっぱいに広がっている。その青さが苦しさと清々しさと湿っぽさをもたらす。平等川は流れる。私は決して家族にはなじまない。その結託に、抗って生きていく。自分の人生は個人のものだ。何度も蹂躙して自分自身でもまたぶち壊しにした人生を掴み、これも私は平等川に鎮めよう。親を殺す代わりに自分は自分自身を殺して、平等川の浅い流れを薙ぎ払って。家族を持ったものが幸せなのではない。私は家族のない人が一番幸せになる世界を作りたい。

 

平等川がすごすごと音を立てて流れている。

 

私の親は世の中の酷さについて全く知らないで、お嬢様なのだ。そこを地獄と知らないで地獄に行くように人に強制するようなことを平気で毎日行う。自分が親からもらったものに守られていることを知らないで、同じように違う人がその扉を叩いたら剣でひとつき殺されて心身ともに再起不能になるような道を平気で強制する。この20年ほどは親に世の中の酷さを説明することをしてきたけれど、なんの意味もない。守られている人はなお相続によって守られている。私は世の中を良くするようにしなければいけないのに、どうしてこんな個人的なことのために時間を浪費したのか。

 

 

 

 

理想の誕生日祝

誕生日には釈迦堂遺跡に行く。そこで縄文王国山梨という本を買う。

水煙文土器を各方向から見て満足するまで見物する。

釈迦堂SAまで歩いていってソフトクリームを食べる。車を運転して家に帰り、桃を食べる。明日は仕事だからパソコンとインターネットの様子を確認する。

川に行って釣りをして釣った魚を旦那と焼いて食べる。これは空想のとても良い誕生日。

最近全然日記を書いていない。やっぱり書きやすい日記帳がないからかもしれない。白紙の日記帳を見ると悲しくなる。

活力


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身体に強く値上げが食い込んできた。今月は赤字だ。こんな時に下手に動いたらだめだ。もとからお金のある人はじっと黙ってなにか賢いことをするのだと思うものの、すべてが値上げする一方で1円も上がらない給与にはたじろぐ。

 

長い目で見れば、引っ越しなどしないほうが良いし、転職も落ち着いて考えなくてはと思うものの、狼狽する。いまは簿記一級を勉強しなくてはいけないと思うものの、退職者が増えて監査対応もままならない。会社全体のレスポンスが悪く、会社全体がぴしぴしと音を立てたわんでいるのがわかる。

 

仕事がたくさんあって、それはグループ分けされている。私の中で分類されていくつもの山に分けられている。一つ終わったら、もう一つの山に着手しないといけないのだが、人数が足りなくて、その山を崩し始めたらみんな残業で疲弊してしまう。どうして良いかわからない。

 

会社の評判みたいなサイトに乗っている会社の評判が悪すぎるのとコロナ禍で業績が赤字なので、新規採用ができないようだ。この職場は今はいるとかなり苦労するのでよっぽど給料が良くないと入社するべきじゃないと思う。

 

景気が良いときは体調が悪くても気にしないで働いていて、景気が悪くなると病院とか言ってちゃんと直そうと思うのが面白い。漢方も毎日飲んでいる。体を保っていれば働くこともでき続ける。

 

こんなお金がないときに避けられないイベントが予定されていてもう辞めることができないから、なんとかそれを乗り切ったら節約節約だと思っている。