いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

降りる戦いに染まる

子供を作ろうと思ったり、結婚してこれから田舎で暮らしを、など考えたら女としてはこの仕事としての戦いからは降りる必要があるけど、この戦いで培った知識で、新しい戦いをもっとうまく戦うことはできるかもしれないから、とにかく降りるこの戦いをあと数年楽しもうと思う。

 

どちらにしろもう立ち止まってはいられないから、一発で挑戦は打ち抜き続けなきゃいけないから、引き締まってるきもち。

 

戦いは降りるってことがわかってると戦いの中にいても気が楽だし、だから戦争でもなんでも、降りられないものには参加しちゃいけないのだ。
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今日は旦那と公園でおにぎり食べたり花見したりしてとても良かった。

コロナの対策

 

コロナ対策として遠出はしないようにしている。リモートワークがどんなものかわからないけれど、リモートワークできる人たちがとてもうらやましい。通勤しなくていいというのはいいじゃないかQOL上がるのではないか。まさかこのご時世に、リモートだから徹夜して仕事しようという人もいないだろうし。

 

私の部署はリモートワークは不可能という上長判断で出勤しているのだが、個人的には全然リモートワーク可能じゃないかと思っている。なんなんだろうか。とはいえまだ仕事の内容よくわかっていないから従う。

 

上司がよく休みを取りまくる人に「なんであんなに休みが取れるんだろう」的なことを批判的なことを言っているけれど、自分の仕事をきちんと整理して、手中に収めて自分の生活をできるようにしている人は本当にすごいと思うし、ミスもなく自分の理想のライフスタイルを実現している先輩には感動する。仕事かくあるべし。

 

旦那に宅建の本を上げたら読んでいて、その読んでいる様子を見ていると、読むというのはこういうことだったなと思うようなことが多くて、私は読むことに慣れすぎていて、最近ちゃんと物を読めていなかったのかもしれないなと思った。

 

最近よく繰り返し考えていることは、繰り返すことは大切ということで、時間がなくてもとにかく計画したスパンで繰り返すことで、自分のものにできる。

 

記録することと繰り返すことが学びの基本であるということで、そうすることでミスのないアウトプットができるようになる。そうすることでひらめきが消えるということはなくて、むしろ盤石な勉強とか練習をした後のアウトプットでなくては実行する場面では何の意味もなさないということが多いだろう。

 

自分の人生に関係あることを学んでいると楽しくて、私がもし100日後に死ぬ人間で、その学びを生かすことがないとしても、この学びを楽しんでいるということ自体が私の人生で、お金をためても明日死んで使わないとしても、何のためにお金をためていたかということが私の人生で、それはそれでいいんだと思う。

 

結婚に伴って、会社や役所や機関に様々な申請をしなければならないのだが、これが自分にとってはとても不満で、私は自分を草か何かのように思っていて、結婚もなにも自分の勝手でやって勝手に生きて勝手に死んでいけばいいと思っているのに、なんでこんなに人に報告しなければならないのだ、と思うし、何らかの感想を他人から聞いても、いやそんなこと大して聞きたくもないし、自分の人生の進行にかんしては、自分以外の評価は必要ないし、生き方の周辺がただ静寂に包まれていることが大切だと思っている。うるさいと冷静に判断できないからだ。そんな周囲の他人が何と言ってくるかを含めての人生進行に全く興味がない。

 

お祝いとかもいらないし、私の人生は静かに私のためにあればいい。結婚したからこうなるはずとか、次は何をするはずとか思われるのも嫌だ。私はただ結婚をしたのだ。

 

 

 

今日は家の近くでお弁当を買って、ケーキを買って旦那とお花見をしてとてもよかった。人がいない場所でお花見をできてうれしい。なんだかいいなあ。久しぶりにリプトンの紙パックのミルクティーを買って、飲んだら甘すぎるなと思った。最近甘いものはなんでも甘すぎると思う。しょっぱいもののほうが好きだ。昔からそんな感じはあったが、最近は特に甘いものよりしょっぱいものが好きだ。旦那は甘いものが好きで、東京の甘いものを食べても、どんなものもあんまり甘くないなあとか甘さ控えめとか言っている。私はそれでも甘すぎると思っていて、たぶん出身地域の違いだと思う。

 

重たいPCを使うと疲れるから、昔使っていたPCを引っ張り出してきたのだが、とにかく電池がもう弱っていてコンセントにつないで使わないとだめだ。これはかなり悲しい。ブログを旅先で書くとか、そういう用途には最高の小さいPCなのだ。旅に行かないまでもそういうデバイスを持っているということは自分にとって心の余裕になる。しかたない。

 

私は、生まれたら勉強して、勉強したら就職して、就職したら結婚して、結婚したら家を買って、みたいな流れを追っていく人生には嫌だなあと思っていて、どうせみんな死ぬ年齢が違うのだから、焦ってもゆっくりやっても意味がないと思っている。その時になったらやればよいと思う。今日はその時になったから花見をしたのだけど、本当はお弁当を買わなくても、お茶だけ持って座ってみていたって、私は旦那といれば幸せだったのだ。

 

千鳥ヶ淵で死んだ父と家族と待ち合わせをして花見をしたのを思い出した。なぜかあのころ父が土産に豆餅せんべいを買ってくることが多かったのだが、あれは何でだったのかなあ。

 

旦那と一緒に長生きして、いろんなことを一緒に懐かしく思いたいという話をした。昨日簿記の問題を解いていても全然わからなかったけど今日よく寝た後にといたらわかりまくったので、睡眠が足りないと何をやっても意味がほとんどないと思って、寝ることは最優先するべきだと思った。でも寝ることを最優先すると思っているだけではだらしなくなってしまうので、寝ることを最優先するために、やることを早くやっちゃうようにしなければ。

 

しかも昨日はもう寝不足すぎて、お金がなくてどうしようとかはなして旦那を心配させるなどして自分でもキレていたのだが、よく考えたら暮らしていけないわけではないし、まあ気にすることはないと今は思う。部署移動して給料が減ったのは本当なので、節約しなければならない。

 

あと昨日は追い詰められていて、こんなに貯金できないと生活している意味がないとか言っていたのだが、それは意味が分からないし、そのように考える必要はないと思う。うつ病の人を入院させると、働かないとお金が無くなっちゃうとかばかり話ししてらちが明かないというような話を聞いたことがあるが、それみたいな感じなので、危険だと思った。つまり睡眠をして睡眠不足を脱すれば別にそう悲観することもないので、変なことを言ったり気にしているときはとにかく寝ればいいと思う。

 


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旦那が日がな一日飽きることなく信長の野望をプレーできていてほんとにすごいと思った。好きなものってそういうものだよなと思う。じつは自分にはそういうものあったことない。

 

ほしいものなど何もない。ただ順調に金がたまってほしい。

旦那が信長の野望をやっていて、陥落すると「この城、我らのものだ!」っていう音がなるのだが、私には何一つほしいものがなく、食事も住居も無理してまですごいものを食べる気もなく。ただいま考えている自分の住居とか生活のスタイルを実現するために順調に金が溜まっていってほしい。それも今すぐ溜まってほしいというわけではなく、今色々と考えているので、その結果はゆっくりと成就すればいいのであって、そのために金は順調に溜まってほしい。そういった願いを成就させることのできるような社会が望ましいのではないか。

 

食べ物に興味はあるけど、私のそれは民芸的興味であって、先日書いた都会のお稲荷さんのような並外れた高いものとかには興味がない。

 

平成生まれの私はそのように考えている最近。

 

ところで私の信念とは最大多数の最大幸福なのだろうか。働き始めてちょっとわからない。私の信念は弱者の最大幸福な気がする。万物の幸福というのはなんか旅の僧ぽい。

 


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このブログ記事みたいに最近完成してないと思う中途半端な言葉コリ多いのだが、そもそも何かを生み出してることが尊いし、生み出さなかったらただ生きただけだけど生み出しておけば振り返ることもできる素晴らしい毎日なのだと思えてきた。そういうのがブログ。

都会のお稲荷

これはだしいなりという有名ないなりずしの店らしくて朝からこのように行列がしている。いくら出汁がひたひたといっても、4つで1500円の稲荷があるとは信じがたい。熊本とかの油揚げを使ってるらしいけど、個人的に思うことは油揚げは揚げたてのほうが美味しいから近所で買えばいいのではないか。とは思うけど多分違う次元の食べ物なのだろう。すごい。東京らしさがすごいのだが、もとは東京の店ではないらしい。のれんのデザインが今風である。
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今とてもとても旅がしたくて、お腹を好かせて海辺の路線をめぐるような18きっぷの旅がひたすらやりたい。とか言っているうちに18きっぷの季節終わってしまうのだが。そしてコロナであまり行く気が起きない。

 

最近は銭湯経営をしたいと思っていて、あと将来家を買うなら絶対に田舎野山が見える場所で温泉が湧いている家で…などと考えている。その前にひと冒険したい気持ちでいる。

 

なにか盤石な国家資格取れたら、子供作ってもいいかなと思っている。

晴れてて気持ちの良い日

晴れているが起きたのが遅かったせいもあってか、遠くの空は雲で覆われていて、真っ白な富士山は見えない。そのことは私に「すん」という気持ちを催させた。とかあほなことを言っていないで、今日のことを書く。写真は旦那がきれいに切ってくれたニンジンを炒めて明日の弁当の具を作っているところ。私ならまずこんなにきれいには切れない。というか途中で飽きる。


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ところで、考えてみると、すべてのことは分解すると動作に過ぎない。動作をするかしないか、それだけのチョイスだ。例えば結婚するということについて、婚姻届けをインターネットでダウンロードする/しない。ダウンロードしたPDFをUSBに保存する/しない。USBを持ってコンビニに行って印刷する/しない。書き損じがあっても大丈夫なように3枚ほど印刷する/しない。ペンを握って名前住所などを書く/書かない。保証人を探して頼む/頼まない。返送されてきた記入済婚姻届けを役所に出す/出さない。などなど非常に多くの動作からなる行為。これが結婚だ。結婚であっても、歯を磨くのと同じように、動作の集まりだ。動作の結果だ。

 

結局人生における選択とは、これを選択する/しない。によるバリエーションなのだと思う。基本的に私は2択というものには、選ぶ人は賭けのような気持ちを持ってしまうと思っている。そう思うと、これをしなければいけないというような思い込みはへんてこだと思ってしまうし、そんな思い切りのいいかけのようなことをしてしまう構造にある人生の一回一回の他人の選択に対して、いちいち「なぜ」と聞くのは偏執のようなものだと思う。たとえその人に、「これをするか、もしくはあれをするか」という選択肢が選べる程度にある状況でも、結局「これをする/しない。あれをする/しない。」という選択をすることには変わりなく、つまり私たちは常に2択の世界を生きている。2択なんだから、思い付きで「する」を選ぶこともあるだろうし、「しない」を選ぶこともあるだろうし。

 

そのとき、そういう風に水が流れているから選んだと思うことでも、後から考えてみればその水自体なかったなんてこともよくあることだと思う。一回一回の決断は全然分離していて、関係がないんじゃないか。まるで以前にこれを選んだから次もそんなものが来たら「する」を選ばなければいけないみたいに思っている人もいるかもしれないけど、そうじゃない。今日まで何年もブログを書いているから今日も書かなければいけないんじゃない。今日もブログを書くか書かないかの選択について「する」を選んだのだ。

 

「する」を選び続けたからと言って、私の人生がそれで決まっていくのかと言えばそれも違う。私の人生の選択は明日には違う方向に変換可能だ。

 

私の選択によって構成された周囲の状況と、私の人生はまるで無関係だ。だけど私の選択によってこの状況にたどり着いたことを愛し始めるとすれば、そこからやはり逆に自分自身を追い詰めることにもつながる。この状況を守り続けるためには、手っ取り早くは明日も仕事にいかなければならない、というように。けど私は本心ではそういう風に思っていない。明日仕事に行くのはとりあえず「する」をその日に選んでいると思っている。明日消えるかもしれない連鎖のうちのいち「する」を選んだだけだ。そう思うと毎日が大切に思える。二度とないバリエーションを楽しんでいるような感じがする。

 

私にとって旦那は環境ではないし状況ではない。「する」を選んだからそばにいるのではない。いややっぱり「する」を選んだからそばにいるんだろうと思わなければいけないのだろうが、選択可能な次元を超えて、私たちはそばにいたのだ。そういうわけでどのような選択をしても私たちはそばにいるだろう。このような表現は少々自分に甘すぎるのではないかと思うには思う。確かに。これは将来考えてみれば、やはりそういう水が流れていると思っていたけれど水自体なかった事象に当たるのかもしれない。けど記念に書いておくけれど、何を「する」を選んでも、私たちは一緒にいると思っている。そのためにもし神がいるなら、その神が私のために、旦那を私と会わせたのだし、旦那はそのために私の家に住んでもいいように身軽なのだし、土着していない人間になったのだ。なんちゃって。

 

実はそんなことはどうでもいいのだけどいまいち自分と環境がしっくりくるということがないんだよねというのが本当の悩みですな。

多分しっくりくるようなところまで来ていないのだと思う。しっくりこない自分という立ち位置にしっくり来てしまうのさえまだ早い気がする。

 

今週のお題「ホワイトデー」

今日は雪が降った

雪が降った。
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絵を描いた。


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図書館の前で待っているときの旦那。


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私どもの家に帰った。私どもの家はアパート。旦那は風邪気味なので葛根湯を飲む。私は風呂を沸かす。旦那の親から電話くる。会社の扶養の関係の手続きが面倒くさくて、書類もたくさん提出する。それについて旦那が話していた。

 

結婚してから始めてダンナのお母さんと話したので、おめでとうと言われた。よろしくお願いしますと答えた。私の親は怒っていて、明日にもすぐ相手に合わせろとか騒いでいるけど、常識がなんとか言ってモラハラしてくるけど、普通に無理だし会わせたくない。そして貴殿にモラルについて言われる付き合いはない。

 

チキンカツとメンチ買った。ちょっと贅沢しすぎてる可能性ある。チキンカツはマヨネーズと合うと思ったけど案外ブルドックソースだった。

忘れてしまうことが多い中で

一人で何気なく生きていると忘れてしまうことが多い中で、オペラント条件付けのように常に繰り返していたい。これは忘れないというものが刻みつけられていくのは同じ人と過ごす良いところだ。やたらに旅とかしたり、やたらと人と会いたいと思うときは、そもそも自分の人生ってほとんどが忘れてしまうものだということを忘れていると思う。

 

毎日は疲れて終わってよく寝て元気になって朝また仕事に行く。そんな繰り返しの中で雨が降ったり空がきれいで山が臨めたり桜が咲いたり椿が落ちたり、風で自転車が倒れたりする。

 

仕事がうまく行ったり行かなかったり金が稼げたり稼げなかったりする。買ったご飯が美味しかったり美味しくなかったりする。けどその全てきっと忘れてしまう。書いておけばよ買ったと思いながらももう膨大すぎてその時の文章を探し出すこともできないし読み返す時間もない。

 

旦那が家にいてくれて嬉しい。元気でいてくれて嬉しい。ケバブ丼一緒に食べれて嬉しい。

 

そういうことは毎日繰り返される。けどそういうことはわすれないものだ。出来事としてではなくて、感覚として降り積もっているからだ。そういうのが生活のうまい味わい方だなあと思っている。そしてそれは金を稼いでいるとか仕事をしているとか、世界を旅したとかいう話とは関係がない。

 

つまり言いたいことはリモートワーク早くして。やりたいのは定点観測。家はワンダフルで、退屈してることなんかないけどエホバの人とかも来て勧誘までしてくる。その後勧誘の内容を旦那と話したりする。

仕事をするので精一杯

という状態な気がする。いかなる刺激も私生活においては発生しないでほしい。揺らさないようにして骨折を直してるような状態が続いていて、親には静かにしていてほしいし、生活のリズムを崩したくない。今日は親からたくさんラインが来て死ぬかと思った。