いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

いそいでブログを書く

今日は頼まれたことを全部片づけてから退社するつもりだったが、別にそんなに急いでやることでもないので、やめておいた。メンタルが微妙なので、よく寝ることが大事だ。というか茶でも飲んでだらだらしたい。会社の中は人事異動が多くて疲れる。とくに入社時から声をかけてくれた人がいなくなったりするのは悲しい。

 

悲しいけれど、無口になりながらも働いていかねばならぬ。てか別に働かなくてもいいけど、性格上働かないととおもってしまう。というか働かねばならぬという状態だと思う、たぶん。

 

そんなこと言っているうちにもうあと5分で日付が変わってしまう。私はとても眠い。しかし勉強したい。家は会社から近くないと人生を無駄遣いしてしまうと思う。けど住んで快適な土地にある会社は給料が安く、給料が高い会社へ行きやすい場所には住みたいと思えない。都会すぎるし、私は少しひなびた雰囲気がないと無理だ。都会と田舎どちらで働くか問題みたいなのが、都内でもやっぱ発生している。細かく見つめていけばいつまでも二択を選び続けることになるのである。最後は二択が無くなって、何も選ぶことはできなくなってしまうのだろうか。それならば、選べるところをあえて選ばないこともありなのか。

 

選ぶことを要求される場面であえて何も選ばないことで、変化を他人や外部に任せきり、かえって自分の変化だけに着目していくという生き方もよさそうだ。なぜか選ぶことを重視しがちだが、別に選ばなくてもいい。本のはじめとかで、「私たちは毎日選択を繰りかえして暮らしている」みたいなことはよく書かれているけど、選択をしないうちに物事がうごいていき、別に何も選択する必要が無くなった(流された)というような生き方は、そんなに悪いものだろうか。26歳にもなると、選ぶべきポイントについては何もかも選びつくした気にもならなくはない。

 

26歳までにいろんな選択をした結果、残りの人生はその選択に導かれて生きていくような気もする。26歳からなんの選択もしない人生、もしくは、26歳の時までに決めた方針だけで、RPA的にいつも同じ選択を繰り返し、選択することに楽しみを見出そうとしない人生は、悪いものだろうか。

 

大人になっても子供みたいな信念を口にする人のことを周囲は否定したりするが、そんなこといいではないか。他人から見た自分の姿が変化しているか否かなど、さして重要だと思わない。そういう考え方はわるいだろうか。

変化しない人のことは尊敬しないとか、いうけれど、子供のころからの信念を貫いて×××みたいな話は好きとか、そんなの同じ振る舞いの裏表から見た表現の違いだけで、世の中のことは何でも裏表から見た表現の違いのように思える。ちなみに他人の評価は気にしないと言ってみたところで、自分でどう評価するかもその時々の裏表の評価の違いに過ぎなくて、結局自分自身の快不快について、快のほうに逃げるように、あとから理由をつけて頭を使って説明しているだけなんじゃないか。

 

もっとも、他人から見れば苦しいことでも、そういうことをするほうが快ととらえる人もいるのである。

 

とりあえず御託は別として資格を取らねばならない。そこで私は、繰り返すことが大切なのである。

 

湯沸かしポットの容量がいまいちなんで、マホービンにためておくようにしたい。こういうやつをそのうち買いたい。

 午前中は簿記をやって、夜はMOSの勉強をするのがいいかなあ。朝は起きにくいので枕を高くしてほとんど起き上がっているみたいにすると起きられるのだが、繰り返すと体に悪いのではないかと心配。