いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

比較

就職してから折に触れて考えていることがある。私は東京で生まれ育ち北関東の田舎に来て働いている。今現在会社から家賃手当を受けており家賃は東京の人に比べれば全然負担していない。家賃手当を込みで考えれば東京の同い年の人と同じ位かもしくは少し少ない位の金額を稼いでいる。この瞬間の賃金と住環境に問題はない。でもここで働き続けることができないと思う。それは働いている人たちとは全く人生に対する考え方が違うと感じるからであり、それ以前に私がもしこの人たちと考えを同じようにして働いていたとしても絶対にこの人と同じ位のものを得ることはできないと言うことがわかりきっているからである。例えば家族、家、車、自分の故郷に住んでいると言う安心感、価値観を同じくする友人たちなどである。似たようなものは得られるにしろいつもその人たちよりは価値のないものや、小さなものに限られている。

 

でもここにあなたの故郷を作りたいと言うような気持ちにさせる場所かと言うと、なかなか人をそういう気持ちにさせるものはない。ならばどうすれば良いのかと言えば、会社の新人に対しては将来ここに故郷を作ると思わせるような何かを与えるか、将来は都会に戻って働くポストを用意するかのどちらかしかない。大体中に働きに来ている若い人と言うのは、別に都会に買いたいと思っているわけではない。むしろ都会に何か思うところがあって田舎に来た人もいるのだから元に戻ることが最高と思っているとは限らない。元に戻ることが最高ではないけれども今の状態を続けていくわけにもいかないというのが一般的な意見なのではないか。私たちは豊かになりたいしパートナーを幸せにしたいしパートナーじゃなくても犬や猫が病気になれば医者に連れて行ってやりたいしたまにはちょっと気の利いたお茶でも飲みたいし、いつもいつもやらなければならない事に追われたくは無いわけだし、いつも自分の人生に対する自分の責任について考えていたくもないわけである。そうしなくて良い場所を求めているはずである。そういう人間になりたいと、場所にかかわらずそういう人間でありたいと思っているけれども、結局みんな修行者では無いのだから、場所によって自分を位置づけることが1番重要で、精神的に高級になることで自分の場所を位置づけることには失敗していて、だから結局ここにはいられないと言う結論に達することになる。結局追いまくられるのが嫌でありながら、追いまくられないと自分が何者かさえわからないし、何かを習得していくことさえできないと言う不埒な人間なのである。まるで親に殴られる事を嫌悪していた子供が、一人暮らしを始めた途端殴られないと何をしていいか分からなくなるのと同じだ。

 

この地域は野菜は安いし果物もおいしい好きな山も見れるし都会にいる時のように何もかもやらなければならない何々しなければならないと暗黙のうちに環境に縛られることもない。都会にいれば、常に自分が何かをしなければならないのに、それをするべき時にしていないのではないかということを考えなければならない。何もかもできるからこそそれ以外のことにお金を払っていることに対する意味それ以外のことに時間を費やしていることの意味を常に問い続ける事は強いられる。それでも私たちはここに居続けることはできないのだ。ここには若い人はいなくて、若いと言うだけで貴重だと思われているのは今だけで、それはこの会社の給与体系を見ればしっかりとわかるわけで若くなくなった後には何の価値も認められない。その時に自分に残されるのは田舎の人が持っているものを持っていない自分、都会の人よりも低い賃金しか稼げない自分、もはや投資の対象として見られない自分。体力のない自分結婚できない自分、誰かにおんぶに抱っこにならなければ生きていけないのに誰にもおんぶに抱っこになれない自分。そしてそんな自分が残された場所さえもまるで見捨てられたような顔をしているのである。私たちは昔と今の比較をする。自分と他者との比較をする。やったことやらなかったことを比較する。毎日が比較の連続です。自分がやっている仕事の同僚がやっている仕事を比較する。入るか迷った会社に行っていた場合と、今の仕事の比較をする。このままでは自分には何もない。比較だけを繰り返して死んでいくことになる。だから何らかの目的を見つけなくてはいけなくて、例えば自分の家族を作ると言うような事は人が持ち得る最も個人的な、最も手近な人生の目標になるのである。そういったことにこだわっている自分をつまらない人間だとは思う。精神的に成長しないものは馬鹿だだから何らかの目的を見つけなくてはいけなくて、例えば自分の家族を作ると言うような事は人が持ち得る最も個人的な、最も手近な人生の目標になるのである。そういったことにこだわっている自分をつまらない人間だとは思う。精神的に成長しないものは馬鹿だ。

 

韓国と日本の間に交わされた条約の名前の読み方などどうでもいい。違う工場で新入社員が暴力を受けて退社した。どうでもいい。そういった沼に一緒にハマっている自分自身に対する嫌悪どうでもいい。自分自身もっとましな目標持ってないことが、自分の接心の幼稚さを表しているかのようでそれがとても嫌です。韓国と日本の間に交わされた条約の名前の読み方などどうでもいい。違う工場で新入社員が暴力を受けて退社した。どうでもいい。そういった沼に一緒にはまっている自分自身に対する嫌悪どうでもいい。自分自身もっと別な目標持ってないことが、自分の精神の幼稚さを表しているかのようでそれがとても嫌です。私の知っている人で無理やりでない目標を持った人は見たことがない。みんな夢を語るとき顔が引きつっている。

 

身の置き所がないというのはこういうことかな。