いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

地域を絞って転職活動をすること

何だかんだ買い叩かれてしまうのではないかと感じる。かといって地域を絞らないでやたらめったらいろんなところを受けても、地元じゃないから会社の評判とかわからないし、職種に対するこだわりもなくすと、プロフェッショナル感がまるでない人材になってしまう。

 

とかくこの世は

 

この選択が正しいのかは後にならないとわからないことが大部分だと思う。間違えたとしても人間の人生は80年だとすれば、あとたったの54年間間違った人生を送れば死ぬというのは、本当に大したことないように思う。なぜ子供の時は人間は楠より長生きできると思っていたのだろう。

 

どうして子供の頃は偉人の伝記などを読んで、すごいことだと思っていたのだろう。ひとつの生き方に過ぎないのに。

 

地域を絞って転職活動をする時、学生の頃読んでいた文化人類学とか民俗学の本で、言及されていたあれらの人々のように私も生活の便宜を思って生きていると感じる。確実に観察する側から、観察される側の人間になってしまったと感じる。これから先、私は金を稼ぎ楽な暮らしをし、ひとところにとどまることを大切に思って暮らしていくのかもしれないが、そうしたくてそうなったわけではない。そうしたくてそうなったわけでもないことを最初から強く望んでいたかのように強く望んで生きていけるのもまた人間なのだ。

 

私は文化人類学者に批評されるような人生を送りたくなかった。されるのならば支離滅裂、曖昧模糊、放浪無職の存在として見られたかった。私は作家として語られたかった。何らかの集団の一端として語られたくはなかった。私の文化ではなく、私の言葉や私の人生を、ただ物として扱い、楽しむ人に楽しまれたかった。