いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

仕事を始めて1年経って思ったけどまともな人間にはなれない

仕事を始めて1年経ったけれど、私はやっぱり変な人間だということが変わらなかった。冷凍庫にピストルの模型を隠してて深夜に自殺の演技をしていそうな、一人で歩いていると何か嫌なことを考えた後「どうせ死ぬ!」と口に出して言ってしまうような問題大有りな人物であり続けた。何が問題って、外見より内面だ。精神面だ。全然周囲と折り合いが合わない。周りとは違うし、周りと同じことに集中できない。なんで燃えている嫌な気持ちが右肩にまとわりついている。世界が必要とする以上の人間愛に燃えている。正義感を超えて、世界への復讐心と思われるくらいの、世界の不条理に対する怒りが溢れている。もっと静かに文章を書いて考える時間を持って生きていきたい。死ぬほどくよくよと思い悩んで一日中泣いて過ごしたい。苦しいんだってことに埋没して、ちゃんと悔やんでいたいのだ。まともなふりをしてたくない。

 

洗濯機を買ってIH調理器もあってこたつもある。炊飯器、湯沸しポットもある。お茶もコーヒーも飲める。新聞は解約したけど会社に行けば読める。煮込み料理もホットクッカーで作れる。一週間分の食品を冷蔵庫で保管できる。でもこんな路線おかしい。胃がかゆいっていう感じなの。自由になりたいっていうか、何も自由ではない。誰もどう振る舞っていいのか教えることはできない。

 

頼むから職業上適切な振る舞いくらい教えてくれよと思うけれど、毎日自分の振る舞い方もわかっていないような不安定な成人男性の数々と一緒に仕事をして頭がおかしくなりそうだ。自分の持ちようがしっかりしていた若者の中で過ごす方が楽だった。みんなこんな環境の中で10年のうちに自分を失ってこんな不安定で傲慢だったり謙虚過ぎたりするおかしなテンションの大人になってしまうのだろうか。おかしすぎると思う。見本にできる人が誰一人いない。

 

でもよく考えたら人生において見本にできる人がいたことなんか中学生と高校生の時の間の本当に短い間だけであった。見本にできる人がいる方が珍しいのだな。なんか何を手に入れても足りないというより、何もいらないのに無理矢理に何かが必要な境遇に追い込まれていると感じる。その波に飲み込まれた人たちの中に見本を見つけようとしても無理だな。

 

自分には色々と普通ではないという部分が多いと自負していて、だけど、眼鏡屋に行っても普通じゃないと言われるなんて思わなかったから、眼鏡屋でそれを言われた時は本当に嫌になった。お金を払って商品を受け取る場では不愉快なことをそんなに狙ったように言われることはないと油断していたのに。

眼鏡屋で精神に問題があると言われた記事はここ。

giveus.hateblo.jp

 

自分の生き方がわからない。こうやって自分のことをうじうじと激烈に悩みながらブログとか書いているのが好き。人生芸人みたいな存在。昔は神聖かまってちゃんのボーカルの人がネット配信をしていて、家族のこととかを考えたり感じたりして話していたのだが、自分はそれを当時結構見ていて、そこに集まる人たちが好きだった。自分の人生できちんと遊んでたもんな。自分の人生だけで十分遊べるし十分考えられるのに、なぜ生活をちゃんと作ったり、生活を豊かにすることにいつも金や精神や時間を消耗しろと迫られなければいけないのか。

 

今や自分はやっと家族から離れることができて、自分の人生を始めたところだ。旦那と結婚して新しいフェーズをこれから楽しもうというところだ。なんで毎朝叩き起こされるようにして仕事に行かなければならないんだ。もっとこの瞬間の甘みを味わいたい。もっとこの静けさ、このうるささ、この朝日、この夜、この桜、この風を記憶していたい。窓にぶつかる鳥にみんなが笑い声をあげる職場ではなくて、空腹にかられて不安になりながら、猫に食べられた鳥の気持ちを考えたり、それまで渡ってきた海のきらめきを想像しながら、なんで旦那がそういうことを気にするのか、一緒にご飯を食べたらどんな気持ちか、考えることは無限にあって、もっとちゃんと考えることで無責任じゃない人生を生きていきたいのや。もっとちゃんとその時の人生を感じていきていきたいんや。

なんかそういうことを可能にする職業はないの!?

 

いつも何かまともな社会に対しては隠していきていかなければいけない。私の親は不倫をしたんだ、私は母子家庭の出身で、ちゅらさんとかいうドラマがNHKでやっていた時過程はボロボロで、私の家はどこにもなくて、卒業アルバムのお金が払えなくてとか、そんなことどうでもいい自分にとってはどうでもいい。けどそのどうでもいいことを普通に話せないのは自然の流れに逆らっている。なかったことにする日が来てもいいいと思うけど、それは自分がそれをなかったことにしても平気な納得をしてからのことで、自分は今その段階じゃない。うまくいかないことは自分の過去に関係があると思ってしまう。もしくは周囲からそのように言われているようにいつも感じてしまう。私はカップラーメンを砕いて食べるのが好きで、でもそれを保管するときに、子供の頃のことだけど、カバンの中にぶちまけて、いろんなものと一緒くたになってしまって、どうすればいいのかわからないままそれを三年間くらい放置していた。部屋が全部カップ麺の匂いになって、カバンごと捨てた。中に入っているもののことは思い出したくなかった。触るべきものをちゃんと触らず、捨てるべきものも捨てないようなくらい心が病んでいた。他のことをずっと悔やんでいた。

 

父が死んだとき色々な銀行から借入金の回収のために書類が送られてきて私は法定相続人なので、それを全部放棄した。父の生き方をみんなバカにしてあるまじきものだと言った。私はわざと、借金するなら死ぬ間際が一番いい。逃げ切れるのはその瞬間だけ、と言ってにやにや笑った。お前らなんかみんな死ねばいい。一体何を誇ることができてそんなことを言えるのか。そういうことについてその時の自分の筋肉の動きを一つ一つ思い出すようにして考え抜きたいのだ。本当は何か違うことを言って、その場でみんなを八つ裂きにして殺すべきだったかと思う。無法地帯だったらほんと親族とか皆殺しにして荒野へ去っていったと思いますね。しかも小学生くらいの時に。もちろん父も八つ裂きにしてたと思うけれども、私にとっては私に八つ裂きにされるべき人たちが喧嘩両成敗みたいな感じで消えてくれたらこの世界で誰の視線も感じずに生きることができたんだよな。自分で普通の過去とかを捏造して本当に普通だったと思い込んで生きていくみたいにな。両方同じくらいすさまじく悪い人間たちだったのに、その片方だけ死ぬなんてフェアじゃない。いきている方の人なんて二度と見たくない。

 

そういう家族からやっと離れて自分の人生を生きていけるということがどういうことなのか、ちゃんと考えて生きていきたい。人生の怖さをちゃんと清算して、もし子供ができるようなことがあれば歪みのない自然な世界を一緒に見ていきたい。癖っ毛のようになってる人生観世界観を直したいのだ。新生活おすすめグッズはこのブログです。よろしくね。

 

こういうのは本当はメンヘラというのとは違うと思うんだわな。

 

www.youtube.com

 

今週のお題「新生活おすすめグッズ」