いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

正月明け

 正月明けなのでかなり仕事の手順を忘れていて笑ってしまう。大変である。ちょっとした承認の手順を忘れてしまい、印鑑をもらわないまま社内の違う支店に送ってしまった。多分受け取る人も正月ボケしており忙しいのでなんだよと思っているはず。血も足りないし本当にもう。なんでこんなに承認印が必要なものが多いんだ。請求書に帰省手当申請、出張報告書、見積書、有給申請書、出勤台帳・・・コラー。

 

 昨日頭が痛すぎたのでオートミールをふやかして食べていたのだが、それがこたつの上に置きっぱなしだったので、それに米粉を混ぜてはちみつを入れて、クッキーのように焼いた。今それを食べながらこれを書いているのだが、割といける。こんな適当なものが割りに美味しい。ただ歯につくし、冷めてくるとひび割れて見た目が良くなくなってくる。

 

 それにしても「それを食べながらこれを書いている」という書き方面白いな。ダメな感じがするけどなんか。東京という場所は私が高校生くらいの時にはダメな感じの古本屋が歩いていけるほど近くにあるものと決まっていた。今住んでいる辺りには何もない。その代わりに図書館はある。でもあんまり蔵書がない。かと思えば思いがけないものはちゃんと蔵書されている。電気ストーブとこたつと電気毛布を使用している。本を読むにはすぐに背中が痛くなる。正座をするには、疲れている。もうちょっと蔵書があってもいいと思う。でもこの土地にも確かに本を読んでいる人がいる。読書オフ会を企画しようと思っている。別にそのつもりはなくて会ったのだが、読書オフ会のプロのゆたさん(id:SHADE)に会った時、読書オフ会の開き方についてすごく色々教えていただいた。ゆたさん全然説明下手くそじゃないじゃん。超うまいじゃん。

 

 お互いに似通った性質を持つ人の説明は聴きやすい、というのもある。言葉のリズムや文章の長さが合わないのかもしれないけれど、いくら聞いてもこの人の言っていることは一部しか汲み取れないなと感じてしまう場合もある。話が長すぎてポイントがわからない人などもこの例である。

 

 ゆたさんが、発達障害の人は職場などで「これできる?」と言われると、そういうことを無理して引き受けて抱え込んだせいで何回も潰れたことがあっても、ついつい「できます「自分やります」と答えてしまい抱え込んでしまう傾向にあるけど何故なんだろう、と話していた。そうだよねえ。私もそれはとてもよくわかる。

 

 自己評価が低いから断ることなんてできない、やるしかない、やることで成長しなければ自分は存在してはいけないのだ、と考えてしまうから、と書いている人がいたような。でも自分は、確かにそれもあると思うけれど、全体像が見えないということに慣れすぎているからではないかな、と思うことがある。基本的に人の話を聞いても全てを理解することができないので、何に接するにしても、後から物事が理解されてくる、後から文脈が分かり始めるということが日常茶飯事なので、そうやってしか世界を理解できない、っていう意気込みで、「やります」「できます」と答えてしまうのかなと思う。それが「衝動性」とか呼ばれているのかなと思っている。自分は世界を理解しなければならないという責任感は割と強いほうかなと思っている。それが「好奇心」とか言われているところかなと思う。

 

 いつも日記を書いていたいのは、自分で見たものを人に伝えたいからかなと思う。書いていないと、インプットだけで消化不良になり、なんとなく気持ち悪くなる。日記を書くにも全体像が全くわからないで書き始めている。書きながら自分でわかってくる。わかってくるというか、本当にそう思っているのかは置いておいて、そういう風に考えられるんだということがわかってくる。

 

 話は変わって、会社で自分より英語がうまく訳せる人に会った。自分の方が早いけれど、正確性があっちの方が上。もっと英語をうまく話せるようになりたい。というより、もっとちゃんと書けるようになりたい。けど正確に訳そうとしても、自分で自分の間違えを見つけることができない私には、瞬時に初見で正しく訳すように、そういう種類の英語力を磨くしかない。二十数年間取り組んできて、私は自分の間違いを見つける能力を鍛えることはほぼ不可能であるとわかった。間違った数字を入力した場合、入力した瞬間に気づかなければ一生見つけることはできない。

 

 最近気づいたのだが、私は過去のことをあまり覚えていない。あまりに不如意であるがゆえに忘れてしまうように作られたのかもしれない。私は23歳くらいから生まれたような気がする。それ以前の記憶は安っぽいアタッチメントで取り付けられたかのようだ。

 

 最近気づいたのだが、私は不意打ちが怖い。というより不意打ちを恐れている。平凡な毎日を過ごした末に、不意に病気になって死ぬ、不意に配偶者を失う、不意に物事がわからなくなる、不意に監禁される、不意に労災になる、など。そのことの恐ろしさといったら、よく通常業務に取り組めるなと思うほどである。

 

 最近東京に帰った時、ビアンの友達にあったのだが、その人に恋人らしき人ができたらしく、デートの様子などを聞いて幸せな気持ちになった。友達がモテているのは嬉しい気持ちになる。そうなんだよ、いいとこあるもの。という感じ。ちなみにその人が、私がたわして思い切りシンクをこすった時怒った人。今思い出すと笑える。

 

giveus.hateblo.jp

 

  この人と話して、やはり工場であっても労災が起きるのはおかしいし、ましてや人が死ぬなんておかしいと思った。鉄鋼系(溶鉱炉などがあったりする)の工場では毎年10人は労災で人が死ぬとかいう話を知り合いから聞いたけれど、「何をどう頑張ってもこうなる」とか思うのはやはりおかしい。「何をどうしても無くしてやる」と思わないと。

 

 この前労災になった同期がいたのだが、自分のせいじゃなくて会社のせいなのに、始末書には自分のせいと書かれているといっていた。話を聞いたらどう考えても会社のせい。しかもその労災の話をしている時に似たような労災前にやったけど黙っていたという人が出てきた。黙ってるんじゃねえよ。改善につなげていたら再発しなかったのに。その同期はやめてしまった。やめて正解だろう。違う同期は背中を壊した。病院に行って労災と言おう、と説得したけど、「どうせもみ消される」「病院もグルになる」と言っていた。こんな地獄に誰がした。やめた同期がその後会社をまた変えたとかいう噂が流れている本当かは知らない。けど、それを話してその人の人格がそもそも良くなかったとかいう結論になる前に、自分たちの作っている環境に問題が大有りなことは自分たちでよくわかっているじゃないかと思う。そんな納得いらないと思う。

 

 「人民のために働こう」という中国の文革期のスローガンがある。今でもたまに言っている人はいるし、ポスターの文句とかにされている。文革について支持しないけれど、このスローガンは大切だと思う。今の時代、自分の働きが「人民のため」になっているのか、考えることが大切だと思う。そして自分も人民であることをきにするべきだと思う。自分が戦って守らなかった人権は、人民の人権でもあるということを忘れないでほしい。人民のためにならない労働なら、そんなことやめるべきだと思う。とは言っても私は自分の仕事はもはや人民のためになっていないと心からわかっているけど、次にやることも見つからないから続けているのだが、これはダメなやり方だと思う。

 

 こんなことをしているのは自信がないからで、それは体力がないからで、だからちゃんと散歩とかをして体力をつけないといけないと思う。

 

 

 

中華人民共和国史 新版 (岩波新書)

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中華人民共和国史十五講 (ちくま学芸文庫)

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この本を買った時に一緒にいた友人とは連絡が取れなくなってしまった。

園芸家12カ月 (中公文庫)

園芸家12カ月 (中公文庫)

 

 

 色々溜まっていたので今日はかけてよかった。右足の膝が痛い。どうも私は右足の膝が弱くて、何かあるとすぐ痛くなってしまうようだ。