いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

久しぶりに前遊んでいた人と会う

駅前の高台みたいになっているところで待っているとその人はやってきた。で持って、歳をとるということや、仕事をするということは、毎日と過去を切り離してしまう。そしてその色あせた過去から人が突然やってきたとしても、それをさもありなんなことだとして受け止めてしまう。あらゆることに喜びとか、驚きを感じなくなる。ああ、きたんだ久しぶりだね的な感じ。例えば鳥居の下から天狗が来ても、ああ来たんだ久しぶりだね、といった感じだろう。

 

切実に散歩をしたい。二時間も三時間も歩きたい。二時間も三時間も歩いて考え続けることで自分は何かを突き抜けられる気がする。

 

久しぶりにその人のブログを読んでいたけど、本当につまらなくなった。脳死状態でも読めるブログになったとでも言おうか。感じさせるものがない。自分が最も読んで欲しいと思っている相手が今はもう読んでくれていないだろうと確信しているような書き方だ。

 

ところでこの地域の皆さんは地図を改定するという概念がないのであろうか。潰れた温泉や今はない会社などがずっと印刷され続けている。