いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

温泉宿

温泉宿の掃除にも色々やり方があるんだそうだ。新しく入った人は掃除をしたからする。掃除は上からするものなのだ。なぜなら上を掃除したらしたに埃が落ちるから。しかしそんなことを教えて飲み込めるのは十代のうちなんだそうだ。そういうのは親の躾、なんだそうだ。

 

そういう風にいう人が確かにいるのなら、十代のうちに就職するのもいい話なのかもしれない。

 

ふと思うことは、私の場合は、親はバブリーに外で稼ぎまくっていたし、遊びまくっていたし、ありえないけどもし三世帯で住むようなことになっても誰も掃除を教えられないと思う。

基本的に誰も掃除をできない家系だ。

 

それに比べて旦那は掃除ができる。旦那はいろんなものを買う。例えば紙でも、ティッシュ、トイレットペーパー、キッチンペーパー、クイックルワイパーの紙、ウェットティッシュ、などを求めている。

 

ドン引きすると思うが、私はほっとけば鬱なときはタオルで鼻かめばいいじゃん、動きたくない、とか稀にやるくらいのダメ人間で、生活が崩壊している。生まれてこのかた私は暮らしてきたのではなく、生き抜いてきたのであり、だからこたつを買ったときなんか不安になった。安らぎ要素が急に生活に添加された。

 

生き抜く環境から暮らす環境に変わったとき、相手をいたわりたいとか喜ばせたいとか楽をさせたいとか、そういう添加が無制限に解禁されて、このまま馬車馬のように働いて金を使うのだろうかと、正直それは嫌だと思った。とはいえ日々の仕事は楽だし、くだらないから疲れもしないけど。な、はずなのだが疲れてるのは問題なので運動せねば。