いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

デート必要性考

デートは必要なのかという問いかけも欠かしてはならないだろう。デート場所を探すのに困難を感じているということを『デート考』で書きましたが、そもそもデートしなくても仲良くしていればいいではないかということを問うべきだ。

 

休日は基本的に本を読んだりスマートフォンでお茶を濁したり、資格の勉強をしゃぶって見たり、買い物をするとはなしに商品をジロジロ手にとって見たり、掃除して見たりする(しかしこの掃除も旦那から見ればすこぶる不十分なものであるらしい)。

 

今日はこの記事を何か他のことも自由にやりつつ、1日かけて書くことに決めた。(あとで振り返ってみると2日かけて書いていた。)

 

そんな風に書いているとデートの必要性について書かないで終わりそうなので先に考えたことを書いておく。結論として、デートは必要だと思う。なんだかんだ二人ともインドア派なので外に出るのは面倒くさい節もある。しかしだからこそ外に出ることが特別だし、気分が晴れるのである。二人で暮らしていく上で、心配なことは山ほどあるのである。体が弱いとか、お金があんまりないとか、片方に家事の負担が偏っているとか、計画したことを実行できない私の性格とか、上司が飲み会に無理やりっぽく連れ出すこととか、食事のバランスはこれでいいのかとか、会社がやばいとか、結婚すれば家賃手当がなくなることとか、旦那は1日二度歯を磨くが、私は歯が減ると困るので、一回しか磨かない主義であるとか、ちょっとしたことを話すために使う旦那の言葉遣いが嫌味だけど本人がそれを嫌味だと気づいていないとか、まあそれぞれに関して本当に悩むべきかはもっとちゃんと考えるべきだが、まあ色々ある。というか悩んでいるというほどではないんだけど。

 

旦那が部屋にいるとシルバーユニットがシルバーユニットみを失ってしまう。なんというか、殺伐としたシンプルさを失い、住居としての温かみを備えるのだ。私としては嬉しく思うこともあるし、温かみが嫌だと感じることもある。殺伐としたシンプルなシルバーユニットの中でこそ、お互いが話す言葉がそのままの意味できちんと伝わる感じがする時もある。タオルはきちんと畳まれ、ズボンはズボン、シャツはシャツと分けられ、テーブルはきれいに保たれ、床の埃は掃き清められ、ゴミは欠かさず捨てられている。そういう環境だと住環境そのものに愛着が湧いて、身軽さが損なわれる。住環境なんていつでも捨てられる方がいいのだと思う。ここで発した言葉の1つ1つが住環境の節々に絡め取られ軌道を失ってしまう。シルバーユニットの妙によそよそしい「お前は一人きりだ」と話しかけてくるようなシャープさは愛してしまう。

 

私は生活を作り上げたいわけではないし、住環境を愛したくもない。ただ旦那がいればそれでいいし、シンプルな会話をそのまま生かしたいと思う。作り上げられていく生活を見て、愚鈍になったような感じがする。

 

デートはまあそんな環境から抜け出して、シルバーユニットの心持ちを思い出す意味がある。何1つ自分のものではない環境で旦那と食事を共にするという懐かしい感じである。

 

そしてどんな環境にいても、旦那がいれば私は他の人といる時よりも安らいだ気持ちでいられるのだと感じることができる時間である。

 

だからデートは大事である。

 

それに付け加えるように書くことになってしまうが、デート中は真面目な話もできる。家で話しているとどうしても「もうええねん」「うガー」となってしまうことがあるし、他のことに気が散ってしまったりもする。しかしデートは相手に時間を全振りするようなものである。だから脇目を振らない。そこでいつも話さないようなことも話し、まるで違う考え方を聞くこともできる。

 

自慢じゃないが私は自分の親とまともに言葉を交わしたことがない。言葉を交わしたことがないというか、ちゃんと話したことがない。旦那はこれまでで一番、話した時間の長さも内容も、充実している相手だ。もちろんあえて話さないこともある。基本的に話さないことは、これまで自分が持っていた家族と、これから旦那と作っていく家族を分けるためにあえて話していないことである。私はその2つが混ざってしまうことを極端に恐れている。混ざるのがとても嫌だ。混ざった途端におかしくなるだろう。壊されてしまうだろう。私は以前までの家族を遠ざけ、これからちゃんとした家族を作って生きたい。しかし家族というのは殺伐とした環境ではちゃんと構築することができないというような一般のムードがあるように思う。テーブルに椅子、おしゃれな置物などを買って間隙を埋めようという涙ぐましい努力が家族にはつきもののように思う。私はそんなの嫌だなあと思う。そうじゃなくてもできるはずだ。何がなくても金を払って何か買おうというようなスタンスには乗れない。なぜなら私はシルバーユニットが好きだし、どうせ何か買っても自分のものだとはあまり思えないから忘れてしまいゴミと化すからだ。

 

まあとにかく家族を作っていこうという心の基盤にある「旦那が好きである」ということを「旦那といると心が安らぐ」ということを確かめるためにもデートは大切である。以上。

 

 

これからは関係のないことを書く。

 

 

目下私は古墳の上にカフェを建てたい気持ちである。古墳カフェなんて素敵じゃないですか。

 

たまに思うのですが、大人になればなるほど誰かと子供じみたところに出かける人がいる。遊園地とか観覧車とか、ディズニーランドとか。他人同士共通して楽しめるものはやはり子供でも楽しめるものなのだろか。しかしそれらはもう自分が本当に楽しみたいものではない気がする。

 

例えば思うのだが、人に勧めて引かれない、誰でもまあまあ楽しめるのが森見登美彦の作品である。あの文章には不思議に幼稚を気取っているような雰囲気があると私は思っている。しかしあれを読む人が本当に触れてほしいえぐい部分には決して触れてくれない変な文章なのである。奇妙奇妙。なんとなく観覧車みたいな小説の数々である。

 

収拾がつかなくなったし長すぎ

おわり。

 

 

四畳半神話大系 (角川文庫)

四畳半神話大系 (角川文庫)

 

 

 

夜行

夜行

 

 

 ↓これが一番痒くなる本である。

太陽と乙女

太陽と乙女