いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

塗り壁化

「なんであんなことをしてしまったんだ!」「ああすればよかった!」と思っていると結局次のチャンスも逃してしまう気がして、「ああなってしまった自分はそれはそれでいいのだ」「次はこうする」などと考えるようにした。

 

例えば「先日の飲み会の服装について上司に注意された。飲み会くらい好きな服装で行かせろ!そもそも無理して付き合っているんだから!そもそもなんで飲み会に好きな服装で行ってはいけないんだ。クソだ!(しかしどうせ無理していくなら服装も完璧にしていけばよかった・・・自分はダメだ、詰めが甘い)」などと考えないで、「先日ラフな格好で飲み会に行ったことで、ラフな格好だと怒られるっていうことがわかった。この人はそういうことにいちいち気分が逆撫でされる人物だということがわかったんだから、それはよかった。次からはスーツさえ着ていけばいいんだ。」と考えるようにする。

 

そうするとその事柄を忘れられ、自分の敏感さがどんどんとなくなり、くだらないことでうじうじしなくなり、心が塗り壁のように「ズヌーン」という感じになり、正直これでいいのだろうか、と思いつつも、面の皮厚くなったというか、まあ平穏に過ごせる。それと同時にこの人になんと思われようがこの広い世界の中の数ある人間の一人なのだから特にこだわらないと思いすぎてしまい、他人から見ても塗り壁人間だと思われてやしないかと思う。今日も一人人が辞めた。とてもできる人。

 

巷には心の持ち方とか、嫌われる勇気とか、自分の精神を安定させるための考え方の本が溢れている。職場の先輩も皆それぞれ、自分の精神を安寧に保つための哲学を持っている。正直我々は戦場の塹壕に立てこもっている歩兵か何かか?なぜそんなに自らを守る方法を毎日考えなければいけないのだろうか。人を傷つけずに自分で有意義な仕事を遺そうとは思わないのだろうか。

 

散り散りに乱れたその心を何かの目的のために集中させることはできないのだろうか。これでは愚民と言われても仕方ないではないか。

 

inuboki.com

精算表作るのきつい。頑張る。

www.youtube.com

 不満を持っていても未来のために努力しないなら、不満を楽しんでいるにすぎないと思う。

 

ただこのように書くと、不満を持っても何もしていない人をマウンティングしているようにとる人もいるかもしれない。しかし私は人より不満をごまかせないたちなので、こうでも思わないとただ疲れているだけで進歩がないんですよ。