いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

なんとなく自分は世の中の事象の一つとして存在してるって感じはあった。しかしそれまで見るべきものは自分ではなく、周囲の事象だった。仮に「私は××」と考えるときにも「私は××、と考えている私がいるかの場所の風景」と考えているのとなんら変わらなかった。

 

ピーマンの空洞は都合がいいのだろうか、と考えるとき、私はすでに、私がピーマンなら、などと移入するようになってしまった部分がある。ある意味においてこれは元凶になりかねない。