いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

自分の1つの特徴

 自分の生い立ちから言っても、常に何かを成し遂げたいと思って来たようだ。それは自分の親がそうだったし、自然と勝つか負けるかの勝負を挑まなければ人生が掠れた読めない字のように、誰にも見向きもされないものになるというような感性を持たされた。勝つか負けるかの勝負をしている時というのは楽しいし、こんな緊迫感溢れる日々が一年続いたらいいなあと思う。けど実際には続いたら疲れるし、どっかに行っちゃうだろう。結局自分は完成させるのが好きじゃないから、何をやり遂げても自分の功績になることって珍しいのにね。

 

 何ごとかを成し遂げないと、認められないという意地みたいなものがある。それは実際に認められないのか否かに関係なく、そう思い込むことで自分を律しようとするやつ。夏休みの目標とか、小学校の黒板の上に貼ってある校内スローガンみたいなもの。これにツッコミを入れるのは日常茶飯事だけど、突っ込んでも突っ込んでも、自分のところに帰って来ていつまでも同じ問いを繰り返すだけ。

 

 今日変なところに椅子を設置した。今日はなんでか体が痛い。昨日そんなアクロバティックなことしたっけ?いや、していない。昨日飲んだ酒が体に合わなかったのでしょう。会社の椅子が歪んでる気がするので背筋も歪むんじゃないかと怖い。

 

 正直私は座る必要とかないので、背もたれのない椅子の方がいいし、できたら立ち机にしたい。座っていい仕事ができたことってあんまない気がする。でも立ってるだけで上司に座れって言われるくらいなのでダメだな。

 

 この世に生まれ落ちてからというもの背もたれには嫌な印象しかないな。その角度じゃないんですけどって思ってしまう。

 

 なんで冒頭のようなことを書いたかというと、子供を産んだ友達がいて、この友達は、もしかしたら「人は生まれて来ただけで認められる」と思っているのかなということをしみじみと思って、彼女が言っていた「子供が欲しい」という関連の言葉は全部そういう意味だったのかなと、後から思って深い気がしたから。

 

 何かを成し遂げないと認められないという考え方は、私とは切り離せないスローガンだけど、当然自分でそれを疑うことはあるし、突っ込むことも日常茶飯事だけど、その方法でしか自分を動かしていけないという気がする。それって私という人間は他の人間とは違って、生まれて来ただけじゃ認められないし、まともに生きていくことはできないんだという、実は原罪意識みたいな、自分のレベルって人より低いんだという意識から派生しているのかなと考えたりもしている。

 

 そもそも自分を動かさなくてもいいだろう、成り行きでなどと考えることもあるし、アスペ発言してしまうことも多いので、自分の認識なんか根底からヘンテコかもしれないと思うこともある。けど動かさない日常は自分が消えてくみたいで、ハラハラしてしまい、バランスの悪さだけを咎められるような感じがする。何かを作ったり動かしたりしていれば、私自身の人格やバランスの悪さは正面から目撃されないという感じがある。

 

 私はしょっちゅう車を買ったらと上司に言われるのですが、その度に思わず私には買えませんよと答えている。ボーナス出るよとか言われるけれど、それは金銭的な問題のそんな差し迫った部分の関連ではなくて、私は何かやらかしたりするかもしれないから、その時のためにローンも組まないし、お金はできるだけ使わないようにしなければいけない、いつどんな判断間違いをするかしれないのだから、ということなんです。どとのつまり自分の評価低いのかなあと思ったね。車は買わない。

 

 ブログというのはこういうことを平気で書いて公開できちゃうのがすごい。