いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

首長になってる民族

首に輪をはめて首長になってる民族の人がいる店に行って、上司が喜んでいた。2人の人の真ん中に座って一緒に写真を撮るといって撮っていた。

 

私はどうしても撮る気にならなかった。それで空気読めないなと思われたかもしれない。でも空気を読むために、この違和感を反故にしたくないのだ。

 

確かにあの人たちは自分でそういう仕事を選んでいるし、土にまみれて畑仕事より体にもいい仕事かもしれない。重いものも持たないし。この人たちが選んだことに対して、人を晒しものにして、とか感じている私の方が失礼なのかもしれない。カフェで働いている人のことを、勝手に「カフェで働くなんて不自然だ」とかいってる人みたいにおかしな話なのかも。自由意志で選んだのなら私がなんとかいうことではない。

 

ただ、私はまだそれを考えているから、一緒に写真を撮ることはできなかった。

 

上司は中国より東南アジアの方が人がいいから好きだという。私は分からないのだ。人がいいという発想が。「人がいい」というのはどういうことだろうか。それはおそらく文化的宗教的風習的に、人に対してあたりが優しいということだろうと思う。でもそれはその全てを共有する人たちの中で暗黙の了解に基づいて行われてきたものなので、共有しない人たちが何も感じずに受け取っていいものではない。それを受け取って良い気持ちになるのなら、自分も全ての了解を理解しなければならない。これが郷に入っては郷に従えってことなのかもね。

 

あの女の子はほかの女の子と違ってお酒注いでくれるから好きだ、といってるのと変わらない。女性たちの間にあるありとあらゆる暗黙の了解を踏まえてその女性はお酒を注いであげることを選んだのだと思う。それを理解しない人が簡単に「あの女の子はいい」などと言っている場合ではない。

 

今日は「ちがいの境界」について書いたみたいなブログになってしまったな。